内藤亜希子さんのドローイング展「ON THE GROUND」も、あっという間に残り数日。
それぞれの絵がすっかりその場に馴染んでしまったから、終わって外さなければいけないのが寂しいなあ、などと早くも感傷的に。
「THE 展示ですっ!」とか「メッセージ打ち出してますっ!」とか、そういった気配はまったくないものなので、お茶飲みがてら、ほんとにぶらぶら〜っと覗いてみてほしいです。
※明日22日(火祝)と明後日23日(水祝)には、亜希子さんの焼く「山角」の販売と、特別なイートインメニューもご用意します!
「ON THE GROUND」にあわせて制作されたzineのこと。紹介が遅くなってしまいましたが、これもぜひとも手に取ってもらいたくて、老婆心ながらここに書き置きを。
「Köln(ケルン)」。
ドローイングは内藤亜希子さん。
写真が、亜希子さんと同じく八ヶ岳山麓に暮らす写真家の砺波周平さん。
余計な言葉や文章のたぐいは一切ナシ。
ただシンプルにふたりの絵と写真のみで構成されています。
初めて届いたときに、わっ!というか、ぐっ、というか、言葉にならない衝撃がありました。
ただ単にきれいな山の写真とスケッチを載せたものなら、他にいくらでもある。
もちろんこの冊子もそんなふうにパラパラと楽しんでもよいのですが、それだけじゃないんだなぁという気配が、冒頭の「ぐっ」に込められます。
そもそも、たぶん制作者のこのふたり、「きれい」なものを作りましょう、なんて気持ちは、さらさらないのでは……。
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仮にも雑誌などにちょこっと文章を書く仕事をしている立場で、こんなことを言うのはなんですが、ときどき、「言葉」を書くのも読むのもうんざりげんなりという落とし穴にはまることがあります。
月に2~3日… 、いやSNSがみっちり生活を侵食するようになってからは、もう少し頻繁かも。
「言葉」そのものというよりは、なにかを伝えようと前のめりにぐいぐい迫ってくる「言葉」かな。
今はだれもかれもが(もちろんそこに今これを書いている私も含まれるのですが)なにかを伝えるべく躍起になっていて、一瞬でもネットを開けば、そんな言葉たちが「これは大切な情報です」という顔をして、怒濤のごとくなだれこんでくる。
(雑誌でも感じますが、ただ新聞や小説ではほとんど感じない。新聞では必要に迫られて言葉は削ぎ落とされるし、小説はやはりそれをなりわいとするプロによる練られた言葉だからでしょう。)
そもそも、ふだん普通に生活するのに、そんなにもたくさんの「言葉」は必要なものでしょうか。
もうひとつ、この頃どうもしんどいなあ苦手だなあというものに、予定調和のもときれいに収まる「物語」があります。
これこそ、わたし自身がもっとも陥りやすい罠なので、よけいに過敏に嫌悪してしまうのだと思いますが。
どんなものかというと、たとえばそうですね… 、
都会を離れて大自然のなかで暮らすことを決めたAさん夫妻。(あくまで(仮)です。)予想外の自然の厳しさやいくつかの困難を乗り越え、いちから蒔いた野菜の種がやがて実をつけ、その今まで食べたどんなものより美味しい手ずからの味に感動し、自分たちもこの野菜のようにこの地に根づいていこうと決意を新たにするのでした、めでたしめでたし、みたいなストーリー。(いくらなんでも本番はもうちょっと上手くまとめられるはずですが!)
聞こえも見た目もいいけれど、そんなもの、現実にはありません。
素人がいちかばちか作ったものより、ベテラン農家さんが普通に作った野菜のほうが美味しいに決まってる。
土地に根づくなんて表現も、その人が死んで、その子供も死んで、孫の子どもくらいがまだそこに暮らしているなら、まあそう言っても許されるかもね、というもの。
本来、長い長い思考の積み重ねや、寄り道や、無駄だったかもしれない空白の時間や、あれやこれやが蓄積されて、ひとつの事象はようやく「物語」と呼べるものに辿り着く。
そのプロセスの、あんまりおいしくないところ、退屈なところ、きれいなひとまとまりにとって邪魔なところをつるんと取り除いて、ちょっとチンして温めて、さあ「物語」のいっちょあがり~……では、あまりに性急というか、お手軽というか。
(何度もしつこいですが、ほんと、これは自戒です…。)
ペラペラになってしまって、そこらじゅうに氾濫する「言葉」と「物語」については、しばらく前からむずむずグルグルしていました。
私にとって、そこにさらりと無言のまま切り込んでこられてしまった相手が、「ケルン」でした。
ここで表現(ヒョーゲンという言い方もまた違うようにも感じますが)されているのは、ある日、ふたりで登った山(八ヶ岳の硫黄山だそうです)で、ふたりが目にしたもの、ただそれだけ。
そこで見えたものがどうだったという、「言葉」による余計な付加情報はなし。
ましてや、そこからこんなメッセージが浮かんできたので読む側のアナタもぜひとも共感すべし、という、押し付けがましい「物語」も、まるでなし。
その潔さ!まる裸っぷりといったら!
「言葉」と「物語」にがんじがらめになりつつ、その違和感すらも「言葉」と「物語」でしか言い表せずにいる私にしてみたら、見晴らしのよい場所で、裸一貫でビョウビョウと風に吹かれてもへっちゃらな顔をしてるみたいなこの本が、羨ましいやら、オソロシイやら、清々しさに思わず笑ってしまいそうになるやら。
もちろん、ふたりの言葉にしない言葉やメッセージ、物語的な部分が、まったくないわけではありません。
特に後半繰り返しあらわれる「ケルン」(山によくある石を積み上げたもの。登頂の記念に積み上げるほかに、慰霊の意味があることもあるのだとか、)を見ていると、きっとここになにかふたりに「来る」ものがあったのだろうと推測できる。
ただそこにも、いつもの悪い癖で、急いで「物語の結末」を勝手に見つけ出して、収めてしまいたくはない。
「何かがそこにある」という気配だけを忘れずにいて、いつか時間が経ってから開いたり、何かの実体験から、「あ、この感じは」と、不意に繋がりが訪れる、そんな瞬間を待つことができたら。
そのとき思わず無意識に口にしてしまう言葉が、本来の「言葉」の姿。
心にすとんと収まって、別に誰かと共有せずともすっかり自分のなかで充足できる手応えが残れば、それこそがその人にとっての大事な「物語」の役割を担うもの。
__なんて。
ついこの頃の自分の心象に重ね合わせて感想を書きましたが、感じ方はまったくもって人それぞれ。
こんな誰かさんの言葉に惑わされる必要はまったくありませんので(!)、ただ、手に取って、身近に置いてみてもらえたらそれで十分。
なんといっても500円なんです、これ。
ずるいなあ!!
(↑これがいちばん率直な感想だったりして。)