少し暖かい日が続いてまたもや油断していたところに寒波来襲。
昨日の水分たっぷりの雪は、今朝、見事なまでにデンジャラスな路面を作ってくれた。
仕事場から帰ってきた相方によると、スキー場の入口近くの坂道では、前方から次々ドライバーの意志とはうらはらにバックで滑走(墜落)してくる車が何台もいたらしい。(ドリフですな。)
せっかくの休日。ついふらふらと山のふもとへ出かけたくなるところ、窓の向こう、雪原の上をゴゴゴーと地吹雪が吹き荒れるのを見て、断念。引き蘢ることに決める。
どこへ出るにもいずれかの峠道を通らねばならない町。
噴火のときにも感じた身動き取れない不便さをうっすらと思い出す。(もちろん仕事などには出かけるけれど。)
なんの身構えもなく動ける季節が待ち遠しい。
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こんな日はおとなしく読書。
部屋のなかにいてもぴゅうぴゅうと冷たい空気が吹き込んでくる。
コタツで体半分あたためて、かじかむ手でページをめくるのは、昨年末に入手した、片山広子『
新編・燈火節』(月曜社)。
2年程前に再版されたときは豪華な装幀で5000円近くしたため図書館のものでガマンしていたら、今回ソフトカバーの廉価版でもう一度出版された。
私にとって、いつからかもっとも気になる人の気になる1冊だっただけに、嬉しくてならない。
キリスト教系の女学校に通った「夢見る文学少女」時代の思い出、みずからが訳すアイルランド文学のこと、軽井沢での滞在の記録、夫と家族に尽くし歌を詠むことも本を開くことも忘れて生活に追われた暮らし、そしてなによりも戦争に翻弄された苦しくつましい人生後期。
日々のなにげないあれこれや回想は、一見たんたんと、文才に長けた人の上手な随筆、というように読み流してしまいそうになるが、時おりヒュッと胸がえぐられるような「裏切り」にあう。
それを解説の梨木果歩は、この片山広子という女性の秘めた「狂熱」と書いている。
はじめて出会った時からなぜか惹かれてしまう理由が、あらためてわかったような。
時代や環境や、自分ではどうすることもできない大きな力の前で、自分自身の中でたぎる情熱や才能を吐き出せず、押し殺して生きるというのは、どれだけ辛く哀しいことだっただろう。
今のように、女性が一人でどこへでも出かけ、自由に奔放に生きられる時代を見たら、どう思っただろうか。
でも、そうした縛りや不自由さがなかったら、はたしてあれだけ生き生きと香り高いアイルランドの物語訳が生まれたかどうか。(アイルランド文学翻訳の一人者でありながら、彼女はその地はおろか日本を出たこともなかった。)
ほんの数十年前を生きた人と、今とのギャップをあらためて感じながら、しんとした気持ちで読んだ。
戦争の終わった年の秋に、疎開先として滞在していた軽井沢を発つ日の朝に、つと浅間山を見上げる場面。
そこで彼女が見た山の姿かたちは、今わたしが見る白い山と同じもの。
そのことが不思議なような、同時にひとつの光景を通して突然時代を超えて身近に感じたような、強い印象が残る。
特に、同年代の女性にお薦めしたい1冊。片山広子のことは、これからもっとよく知ってみたい。
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大相撲初場所の初日をじっくり見る。
復活したわんぱく大将のオーラ。ぐだぐだ言うヤツはかかってきやがれという気迫。
見かけ、態度うんぬんではなく、強いということは単純に美しい。
(個人的な好みは東の横綱ですが。。)
それにしてもホントに今日はさっぶいなーと、コタツから身をひきはがして1階に降りたら、ぎぇぇー、室温2℃でんがな!
「小屋」の増築の前に、「母屋」の改修ではなかったでしょうか、相方殿...。