おとといの夜の雷の音のすごさったらなかった。
雷といっても、空から降るほんとうのではなく、私のお腹の中で暴れ狂ったカミナリさまのこと。
幾日か前からなんだか胃がむかむかするなぁと思っていたら、おとといになって一気に胃と腸がやられた。ウィルス性の風邪かしら。
一晩中、お腹の底から天地を轟かすような音が響いて、(かといってトイレに駆け込むほどでもないのだけど、)ゴロゴロ、キュルルルル..... 弦楽ならぬ腸楽6重奏。苦しみながらも、こんなに違った音の種類や音階があるのかと感心してしまう。(尾籠なハナシですみません...)
でもそうやって、威嚇して、唸って、体内にウィルスが入ってくるのを防ごうとしてくれているかと思うと、カラダはえらい。
夜はほとんど寝られなかったけれど、代わりに昨日いちにちベッドでうつらうつらおとなしくしていたら、雷や熱は消えました。(打合せの約束があったのにダメにしてごめんなさい。)
ここ数日、寒さはいよいよ極まって、まさに痛々しいレベルに。
日中でも最高気温がマイナス5℃を超えず、昨日のように風が吹くと、体感温度はさらに低い。
朝いちばんの室内は、かき氷を食べた後に頭がキーンとするようなあの冷たさで、薪ストーブをつけて2時間ほどしてきてようやくちょっと体が解れる。それでも吐く息は白い。
ストーブを一日焚いていても10℃いくかどうかなので、あとはコタツで補う。当然ながら、麦は一日中コタツから出てこない。
(あんまり寒さのことを書くと、実家の母が「かわいそうかわいそう」と気に病んでしまうからいけないのだけど、でもこれがここでの暮らしの現実だから記録として書きます。)
寒い寒いといっても、ここひと月、ふた月を乗り切ればよいだけなので、この場を逃げ出してしまいたいほどではないのだけど、困ってしまうのは「思考力の低下」。
こんなこと、怠け者の言い訳のように聞こえるかもしれないけれど、ほんとうにあると思うのです、「思考」を持続できる温度の限界というものが。
何かを考えようとしても、頭がまわってくれない。考えていたつもりでも、ただぼーっとしていただけだったり。
あぁ、この冬もとうとうこのゾーンに突入しちゃったか...とため息。
少し前までは結構活発に"考え"られていて、お、この冬はイケるかも、、と思ったりもしたのですが、ダメでした。やっぱり捕われました。今はなーんにも実効的なことを考えられませんー。
(つい先日の日記には「頭がくるくる忙しい」なんて書いていたクセに。ストーンと落とし穴に落ちたような感じデス。)
そんな「無思考期」にも、救いはあります。
それは、ただただ本を読むこと。
頭が働いていないので、本から何かを学んだり記憶したりすることには繋がらないかもしれませんが、温かいスープを一匙一匙飲むように、活字を流し込む...。これはこれで、夏など慌ただしい時期には得られない幸せ。
ちなみにここ数日で(再読も含めて)読んだ本(備忘メモとして)。
「手紙、栞を添えて」(辻邦生・水村美苗)/「つむじ風食堂の夜」(吉田篤弘)/「草枕」(夏目漱石)/「雪沼とその周辺」(堀江敏幸)/「蛇行する川のほとり」(恩田睦)/「となり町戦争」(三崎亜紀)/「f植物園の巣穴」(梨木香歩)
このうち、鈍い頭でもいやはやあっぱれだったのが漱石の「草枕」。ぶつぶつと一人ごちる一人称の文体と、那美さんらその他の登場人物とのテンポよいかけあいのところと、どちらもあんまり面白くって一気に読む。それから「小説なんか開けたところをいい加減に読むのが面白い」という主人公の絵描きの言のとおり、もう一回、二回と開いてみたりしている。読んでいる間、私はきっと時折にやけていたに違いない。
辻邦生と水村美苗の新聞に掲載された往復書簡をまとめた「手紙、栞を添えて」は、私が「草枕」を読んだときのような、文学あるいは物語にのめりこむ(のめりこめる)幸せについて、お互いの読書体験をもとに語り合ったもの。冒頭で水村氏がいう「文学とは誰にでも読めるものではなく、少数のごく限られた人たちにだけ許された幸福である」という意の文章を読んでどきっとする。その限られた一団に入るためには、私にはまだまだ体験が少ないように思う。(数を読めば入団できるものでもないのだけど。)
そして、昨日、ベッドで読み始めた本が、これまた生涯記憶に残りそうな素晴らしい内容なのだけど、長くなりそうなので、また今度.....
あぁ、今日も、かじかんだ手でページをめくることのできるシアワセよ。
ちなみに「草枕」は、『森で読む本120冊』のなかで、「graf」の小坂逸雄さんが推薦されています。