震災から15日目の朝です。
昨日から相方Yは、福島市の実家に一時帰省しています。
揺れによる周囲の建物への被害も想像以上。
そして、今まさに直面している放射能への町の人々の恐れや不安といったものは、実際にその場に行ってこそわかる、異様な緊張感が漂っているようです。
昨日の段階では、実際に避難するかどうか、家族と話し合っている状況です。
テレビやネットも少しずつ普段どおりに戻りつつあります。
誰かが「本当に大変なのは報道されなくなってから」と言っていました。
私の周りでも温度差が出始めています。
でもそれが当然のことだし健全なことだと思います。
いつまでも悲しみや不安に寄り添ってなどいられないし、第一、実際に経験しなければ本当のところはわからない。
恥ずかしながら私も、自分にとって一番大切な人が危険かもしれない場所に行ってみて初めて、本当の不安や恐怖の一端を感じました。
だからといって一緒に不安がったり心配してほしい訳ではありません。
普段どおりにしている人を無神経だとも思いません。
私たちももうすぐそちらにいきます。(いきたいし、いかなければ。)
でもひとつだけ。
もし身近に助けや救いを求める手が来たときは、そのときだけハッと思い出してすぐにも手を差し伸べられる心持ちであり続けたいなぁと。
その気持ちの切り替えスイッチを、たぶんこれからまだまだ先まで、私たちは持ち続けなくてはいけないと思います。
ほしいのは、打ち上げ花火のような悲しみの共感や高揚ではなく、
ねずみ花火や線香花火のように、じりじりと、心のなかに灯り続ける「救いたい」「手助けしたい」という、ごく当たり前の思いやりの感情。
それは震災の被災者に対してのことだけではありません。
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まだまだ気持ちの整理がつかず、同時にもっともっと書きたい想いも渦巻いているけれど、今日はこのあたりで。
これから隣町で開かれる「
ミツバチの羽音と地球の回転」の映画上映に行ってきます。
3月11日より前から予定していたことですが、こんなタイミングで観ることになろうとは。
今回のことに対して強く感じているもうひとつのこと__自分がこれまで原発やエネルギーやその在り方についていかに何も知らずにいたか、という悔しさと情けなさ__について、考え始める足がかりになることは間違いないと思います。