昨日、今年はじめてのカッコウの鳴き声を聞きました。
2週間前、GWが始まる前はまだまだ冬のような景色だったお山も、ぐんぐん、猛烈なスピードで芽吹きが進んでいます。
おとといより昨日、昨日より今日...と、この季節は一日ごとに「目に青葉」が眩しく、濃くなって、意味もなく嬉しくて庭を行ったり来たり。
やっと咲き出したチューリップ、ムスカリ、ヤマブキ、サクラソウ...。スミレも今頃。数年前、移植してみたけれど姿を消して諦めていたニリンソウも今年はちらほら。
下界よりは一ヶ月以上も遅いでしょう春を、今ようやく謳歌しています。
平日の農園仕事も徐々に忙しくなり始め、苗植えの他に(いちばんしんどい)草取りもスタート。
つい数日前まで、霜よけに注意が必要だった苗も、ここ数日の陽気でぐんと成長の速度を増し、そろそろ種類によってはレタスなど来週から収穫も始まりそう。
始まったとなったら、畑も、庭仕事も、お店の営業も、すべてが「せーの!」で加速して、待ってくれないのがここでの暮らしのペース。
気づけば目まぐるしい毎日に巻き込まれ、あれよ、あれま、と一日があっという間に過ぎていきます。
この忙しさのおかげで、3月11日以降、特に原発事故を巡って、ネットやテレビから片時も目を離せず、常に胸の中に重い鉛の玉を抱え続けていたような毎日から、少しずつ何かが"ほどけ"始めた気もしています。
twitterなどでは、かなりその側面に偏った発言が多くなり、心配されたり、なかには不快に思われた方もいるかもしれません。
実際、今に至っても状況はあの日から何も好転せず、避難生活は恒常化し、目に見えない不安は拡大化するばかり。
そのなかで、福島の人が強いられている暮らしと自分たちのそれとを較べてなんとも言えない不条理さを感じたり、誰に向けてよいのか分からない怒りを近い人にぶつけてみたり、同じように怒りや不安を憶えない(ように見える)人に対して苛立ってみたり、かといって自分が何を出来ている訳ではないことを知っているからいざとなると何も言えなかったり。
そんな、たぶん多くのひとと同じ、下向きのぐるぐる渦巻きのなかで、這い上がれずにぐるぐる回りながら、周囲の景色も、周りのひとの声も、見ている・聞いているようで、なにも心の奥には届いていないような日々でした。
長い冬の間、あんなに待ち望んだ春の最初の気配も、上の空でほとんど気づけずにきてしまったのでした。
「知ること」は大切なことで、そのためには「情報」も不可欠です。
でも「情報」を追いかけることに必死で、実際に今目に見えていること、手が触れているモノの感触や、漂ってくる匂いなど、いわゆる五感で感じるものを置き忘れてしまったのでは、知識を詰め込んでも結局何も役立てられません。
広い広い畑のなかで一つ一つ土に苗を植え込んだり、老いてもなお立派に花をつけた山桜の花びらが散るのを眺めたり、ゴム毬のように跳ねながら全身で喜びを表す無邪気な幼い犬と遊んだりしながら、私のなかにもようやく少しずつ伸びやかな心持ちやハリのようなものが戻ってきたかな、と思います。
もちろんまだ何も解決されていなくて、目を背けてはいけないこと、正しく怖れなければいけないこともたくさんあります。
でも、常に肩に力をいれっぱなしでは進んでいけない。
このことに、今の一瞬だけでなく、長期間付き合っていくためには、走り方も短距離走のフォームから長距離走のスタイルへ変えていかなければ。
聞きかじったような言葉を大きな声で叫ぶよりも、地道でも遠回りのようでも、着実に前に向かって動いている人を応援し、自分自身も参加していくことを選びたい。
そしてなにより、もう一度、今、自分を取り巻く大自然の美しさと厳しさの両面、そこから得られる恵みのこと、その近くで暮らせることの幸せ、そのなかで暮らす人々との繋がりについて、あらためて見直してみることに立ち返りたいと思います。
なにかと政治的な側面が強調される原子力の問題ですが、根っこを辿れば自然に対する人間の奢りが招いたことだと思っています。
自然界を征服したり操ろうとするのではなく、あるがままの自然(とうてい太刀打ちできっこない!)と向き合うこと。
そこにこれからの解決策__とは言わないまでもヒントのようなもの、があるように思うのです。
書こうとすると色々滲み出てきてしまうので、ここまでに。
あとはまた、実際に動けそうなときに、少しずつお知らせしていけたら、と。
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さてさて、麦小舎ではこれから、月にひとつのペースでお楽しみ企画を用意しています。
近々、来月のお知らせをしますので、お見逃しなく!
明日は雨のようですが、通常営業にてお待ちしております。