昨日は、意味の不明な内容を書き込み、失礼しました。
実は、ひょんなことから、とあるローカル番組の中で、軽井沢のことを紹介する(それも、生のスタジオで!)という役に担ぎ出され、動揺していたのでした。
結局、国会中継が延長され、再来週に延期されたのですが。
(もつれにもつれた郵政民営化法案の余波は、こんなところにまで!)
で、今日はその文句をNHKに、小泉首相に述べたいっ、という訳ではなく.....
軽井沢や、ここ北軽井沢が好きで、その想いの余り移住まで決行し、運良く軽井沢という街にみっちりと密着した仕事に就いているこの状況で、「軽井沢」の魅力やオススメする点を紹介することなんて、たやすいはず、と思われるかもしれません。
現に私自身もそう思っていました。
ところが今回、仕事でお決まりで使ってしまう美辞麗句を使わずに、自分の言葉でこの街について語ってみようとした時に、うまく表現できずに言葉に詰まってしまう、という事態に直面してしまいました。
これは、個人的にも、「軽井沢」という街を売り物に商売をしている職業的な立場としても、由々しい問題です。
思い返してみれば、近頃の私が軽井沢について何かを話す時、それは常にマイナスな視点から見るマイナスなコメントばかりだったように思います。
「もう今の軽井沢には昔のような良さは残っていない...」
「もとからの住民と別荘客、それに観光客、それぞれが分かり合えるはずなんてない...」
「行政は何も動いてくれない...」
「ブランド力も落ちて、どうせこれから良い方向になんて向かっていく訳ない...」云々。
○○がない、××もない、の、オンパレード。
これらはまるで、オトナの言葉を意味も分からずに憶えたばかりの幼稚園生が、親の口真似をしていっちょまえの顔をしてみせているかのごとく。
そんな風に批判的な意見を発していれば、“この街のことを知っている”とみなしてもらえるとでも、思っていたのでしょうか。
たしかに仕事柄、いわゆる軽井沢の顔役というような人たちに会う機会も多く、そうした人たちは、たいていいつも何かしら不平不満のイッカゴンを持ち「誠に遺憾ながら...」とマイナス面ばかりを取り上げる。
私もいつからか、そうした人たちに感化されすぎていたのかもしれません。
軽井沢の本当の美しさも厳しさも知らないうちから。
ある友人が話していました。
「自分自身がこの街に来たのは、軽井沢という街に惹かれたからという訳ではないが、それでも、もとからここに住んでいる人、長くいる人のほうこそ、軽井沢の素晴らしさに気付いていないことに驚いてしまう」と。
たしかに、その場所に長くいればいるほど、入り込んでしまえばしまうほど、良さというのが見えなくなってきてしまうのは、ここに限らずあることでしょう。
それでも、私のように、余所からここを選び、謳歌してやろうと乗り込んできた、まだ滞在歴十数カ月にしかならないヨソモノが、(たかだか街に関する情報を収集して発信するという仕事柄、必要以上にコアな部分に近付きがちだからといって、)知ったような顔をして、否定的な言葉ばかりを使ってしまうのは、なんとも浅はかで貧相な姿だなぁ、とあらためて気付かされました。
いったん、“見た様な気になっている”見方を捨てて、もっとシンプルに、単純に、気持ちがいいと思えることや、キレイだなと感じられるモノを、素直に取り込める自分に戻れたらと思います。
さて、そこであらためて、軽井沢の魅力って、どこにあるのかしら。
軽井沢高原文庫裏にある堀辰雄の暮らした山荘。