オープンを明後日に控え、やっぱりあたふたしておりますが、ここでお店のこととはちょっと離れて、先週末、福島に帰省したときのことを記しておこうと思います。
自分の中でもまだ色々なことがまとまらないなかで書くべきなのかも迷ったのですが、単純に、今、自分自身が感じていることの備忘録として、残しておきたいな...と。
長文になるかもしれませんが、ご了承のほど。
私にとっては、去年3月11日以降、初めての福島行き。
実家に帰る、家族に会いにゆく。それだけの、当たり前すぎる事柄が、なぜか今では特別なことのように響いてしまう、そのこと自体が哀しくて、悔しくて。
だから、あえてなんでもないことの顔をして、訪ねようと思いました。
いつものように「ご無沙汰しちゃいましたー」と、ヘラヘラと。
そしてもちろん、福島の市内も、実家の周囲も、いつもと何も変わっていませんでした。
ところどころでまだ、地震の直接の被害を受けた道路や斜面の修復工事をしていたほかは、街並みも、遠くの山並みも、川原も、昔よく歩いた商店街も、友だちの営むお店も、懐かしいレストランも。みんな変わらずあって安心しました。
福島時代からの友人夫妻の営む花屋さん「
花ごこち」でお義母さんへのプレゼントの鉢植えと、お義父さんの墓前に備えるお花を買って。
(私たちが福島を離れる頃にオープンしたお店ももう10周年とのこと。センスのよい気持ち良いお花屋さん。福島の方はぜひご利用ください!)
ランチには、相方が昔よく通った洋食屋さんへ。こちらも10年前から変わらない味と、ちょっとオネエ風のマスターが健在でにんまり。
平日の午後の市内の路地には、ちょっと退屈で眠たげな空気が漂っていて、それすらも以前のまま。
道行く人の半分ほどがマスクをしていること以外、いつもと何も変わらない光景に、どこかで身構えてきた自分が可笑しく思えるほどでした。
でも、そこから、「いつも」にはなかったものがちらほら顔を出し始めました。
実家に向かう道すがら、信号待ちをしながら外を眺めていると、道端に「除染中」という立て看板を出して、側溝の掃除をしている人々がいました。
白い防護服に大きな粉塵マスク。手には線量計。
テレビでは幾度となく見る光景ですが、実際に見慣れた風景のなかに唐突にその姿を見ると、白昼夢を見ているような違和感を感じました。
その作業の横を、自転車に乗った子どもたちが走り抜けていきます。
お墓参りにいくお寺近くの空き地に、隣町から避難してきている人たちが暮らす仮設住宅が建っていました。
長閑でいかにも日本の片田舎然としたその町のなかに、無機質なパステルカラーの人工的な構造物が並んでいるのには、それこそ強い違和感がありました。
町の人たちはもう見慣れているようでしたが。
そこかしこの日向の斜面に、フキノトウが大きな花を咲かせていました。
採る人もいないため、これでもかこれでもか、と、伸び伸び大きな花をつけているようにも見えました。
台所のテーブルに、義母が庭先で育てた菜っ葉が無造作に置いてありました。
これは?と聞いたら「あんたたちが食べるかどうか聞いてから料理しようと思って...」と。
その菜っ葉に限らず、義母は食材をいちいち冗談めかしながら食べるかどうかを尋ねてきました。
夕食時に顔を出しに来てくれた叔父から、田んぼのことなどを聞きました。(叔父は兼業の米農家です。)
今年、作付けするかどうかで、みな頭を悩ませているそうです。
国(農協?)からは、放射能を取り除くという薬品が配られ、大きな袋いくつもの薬を作付け前の田んぼに入れるよう指示されているとのこと。(どんな薬なのかはよくわかりませんでした。)
叔父は今年の作付けは諦め、やりたいという人に貸すことにしました。
「作るにしろ作らないにしろ、農家はもう終わりだべ」
吐き捨てるように何度もそう言いました。
地元の新聞には、一面丸々、各地の放射能測定結果の数字が並んでいます。
実家のまわりも、決して低い数値とは言えません。
その他の紙面も、原発と放射能、避難に関することの一色です。
避難してきている町民と、迎え入れる側の町の人との間に、暮らしの待遇面での差があることで、ぎくしゃくとした空気があることも、なんとなく窺い知りました。
(このことは、外部には伝わってきていないこと、その場所に生活していなければ知りえない情報なので、少し驚きました。でもこれも、考えてみればどこでも起きて然るべき問題かもしれません。)
一見、これまでと何も変わらないように見える生活のなかに、やはり放射能は、重たく、根深く、影を落としていました。
もちろん、実際に避難を余儀なくされたり、家を失ったりした人に較べれば、この町は恵まれて(という言い方もおかしいけれど)いることに違いありません。
ただ、一見なんの変化もないように見えるだけにかえって、表面がはらりと剥がれたときに、内側にじわじわと染み込みつつある黒い影の存在が見え隠れし、心臓を冷たい手でぎゅっと握られたような気持ちになるのです。
ほんの短い滞在で見えたことなどごくごく表面的なことですし、もしかしたら自分で感傷的なフィルターをかけていたのかもしれません。
それでも私が受けた印象としては、ただただ、どうにもならないことへの諦めと徒労感のようなものが、澱のように沈殿している、ということでした。
「絶望」というほど激しい感情ではなく、もうどうにでもしてくれ、いいからほっといてくれ、という投げ遣りに近いような。
絶望までいってしまえば、あとは希望を求めて這い上がっていくだけとも言えますが、どん底まで落ちきるわけでもなく、ちゅうぶらりんに放り出されてゆらゆら揺れているような、心もとなくて、せつない、ただもう「どうしようもない」という状態。
そこには、「がんばろう福島」なんていうスローガンはまったく届いてきません。
考えても、もがいても、抗っても、どうにもならないことなので、だったらもう何事もなかったように(実際、見た目の変化は何もないのですから、)外野からの情報には耳をふさいで、これまでどおりに生活するしかないでしょう、ほかに方法がありますか?...と、私がもし住民だったら言うだろうと思います。
滞在中、ちょうどニュースで大飯原発の再稼働に関する政府の対応などが取りざたされていましたが、不思議なほどに現実味がなく、どこか遠い国でのやりとりを見ているような気がしていました。
「福島の問題が片付いてもいないのに何を言ってるんだ」と最も強く怒りの声をあげてもいい立場にいるはずの人たちの多くは、(もちろんがんばっている方もいるとは思いますが、)今はYESもNOもない、出口の見えないトンネルに閉じ込められているように感じます。
一年が過ぎて、津波による被災地の復興は徐々に成果を見せ始めていますが、福島の一部、原発事故の影響を受けてしまった町だけは、ほとんど前進もないまま取り残されていて、目には見えない放射能もまだその場に在り続けている。
ほんの一端を垣間みただけですが、その事実をあらためて痛感させられた帰省となりました。
目には見えない放射能というものが奪っていったもの...、それもまた目には見えないささやかな日常にあった幸せというもので、どちらも目には見えないだけに、当事者以外には伝わりにくく、お金にも換算のしようがありません。
手助けしたくても、なにをしたらいいのか皆目わかりません。
結局は、自分自身も「見捨ててしまっている」側のひとりじゃないか、と、頭のなかにいつもその思いがこびりついています。
それでも、私たちも、自分たちの明日を、毎日を、この場所で生きていかなくてはなりません。
長々と書いてきましたが、このことに関しては、答えはおろか、ヒントすら得られていなくて、気のきいたまとめ方だって、まったくありません。
twitterである人がこう言っていました。
「現実は泥水を飲むような持久戦なんだよ。それしかないんだよ。」
ほんとうにそうだと思います。
一年や二年が過ぎて、きれいさっぱり元に戻ることなんてない。
今回起きてしまったこととは、長く、長く、辛抱強く、苦々しいものを味わいながら、付合っていくしかないのだと思います。
救う、なんてたいそうなことはできないけれど、一緒に泥水を飲みながら、じりじりと進んでいくしかない。
その泥水から顔を背けることだけはしない。
今はただ、そう思うことしかできません。
追記:
この日記に書いたことは私の主観によるものなので、相方が感じることとは必ずしも同じとは限りません。
読んでもらった方に、何かの想いを強制したり共有してもらおうと思ったものでもありません。
どちらかといえば、まだ何も踏み出せていない自分への戒めに書きました。
それぞれが、それぞれの考えのもとに、動いていくしかないのだと思います。