夜、寝ている時に、麦が布団に入ってくるようになった。涼しいから。
夏は、呼んでも誘っても、知らんぷりで、自分だけ風通しのよいベストポジションで丸まっている。
今朝も、目が覚めたら、しっかり枕に頭をのせて、肩まで布団をかけて、お尻を私の顔面に押し付けて、二人の人間の間でいばって鼾をかいていた。
私が起き上がろうとすると、迷惑そうにちらりと片目を開け、また寝る。
もっと小さい頃は、外に出させろ出させろと、うるさかったが、最近ではどっちでもよさそうだ。
それでも、ガラリとテラスに出る戸を開けると、今朝は迷う素振りもなく、あっという間にどこかへ出かけ、午前中いっぱい帰ってこない。
見回しても姿も見えず、音もしない。どこで、何をしてるんだろう。
こんなとき、麦には麦の世界があって、決して私たちの所有物でなないことを、あらためて思う。
私たちが、出かけて、仕事して、腹をたてたり笑ったり、何かを企んだり後悔したりして、毎日をすり潰しているように、この子にも、きちんと思うところがあって、彼女なりの思考と判断によって、自らの行動をとっているのだ。
その彼女なりの思考と判断と行動は、もしかしたら、私たちのそれよりも、理路整然とした崇高なものかもしれない。
なぜなら、そこで彼女は、ウジウジ思い悩んだり、ジタバタ動揺したり、あーとかもうっとか叫んだりすることなく、あくまでひょうひょうと、毅然と、「今はこれ以外に取る道があるかしら?」と平然と自信に満ちた姿勢を崩さないから。
そうも見えるし、実はただ、なーんにも考えていないだけでしょ、という人もいる。
でも、だとしたら、それもすごい。
なーんにも考えずにいられることほど、難しいことはない。
私なんか、いつもいつも、考える必要もないようなくだならないことを、ちまちまちまちま考えて、無駄に疲弊している。
敬愛する絵本作家・佐野洋子さんのエッセイの一文。
猫は伸びをして立ちあがって歩いていく。
私は猫はただ歩いているだけだと思う。
私はもっと泣こうと思って、泣きやすい音楽を流す。
いい気持ち。
猫がどこからかもどってきて、私の真正面に
足をそろえて座り、耳をひくひく動かす。
ふん、おまえ、まるでグレン・グールドの
バッハみたいな顔しちゃってさ。
知っているんだからね。
ただ耳が動いているだけだってことを。
あんたも生きているし、わたしも生きている。
こんな近くで、わかったような、わかんない関係で。
(「猫ばっか」講談社文庫より)
私もメソメソしていると、麦が近くに来てじっと見ていることがある。
犬のように、ぺろぺろ顔を舐めて慰めてくれる、というような芸当はおろか、その眼は優しく包み込むというより、「あなた、そんなことで泣いてるの? 信じられない」と突き放すかのようだったりする。
でも、そうすると、私も見透かされた心持ちになり、そうね、泣くことでもないかもしれない、と思い至り、泣くのをやめる。
* * *
それにしても、静かな夏休み最後の日曜日。
ぶうんと一匹うるさかった蜂と入れ替わりに、麦が帰ってきた。
とっとっと歩いて来て、お気に入りの玄関マットにごろり。
一瞬、ひとの顔をまじまじと見てから、おもむろにお尻をペロペロ。
なべて世はこともなし、ですな、麦さん。