一時期足踏みしていたような山の紅葉が、台風前の数日、ぐっと進んだ。
ミズナラなどの広葉樹が多い小屋周辺の雑木林は、紅葉というより「黄葉」する。
大きな通り沿いや民家の敷地のなかには、ハッとするほど深紅のモミジやカエデもあるけれど、それらはきっと園芸種で、手付かずの林にはそれほど鮮やかな色彩はない。
けれど、林全体が、黄緑からレモン色、山吹、橙、芥子色、朱色までの黄色系のグラデーションに包まれる「黄葉」が、この土地らしくなんともきれいだと思う。
遠目に黄色だと思っても、近づいて葉をまじまじと見ると、その一枚のなかにもあらゆる色が混在していたりする。茶色く枯れかけている部分でさえ美しい。
あいにくの雨続きで、いちばんのよい時を、青空と太陽の光に透かしてまだ見ることができていないのが口惜しくて。。
それでも、水滴を乗せてじっと項垂れている一枚ずつ異なる絵(葉)をはじきながら歩くのも、なんとも贅沢な「紅葉狩り」かもしれない。
(「黄葉」の美しさを知ってからは、わざわざ遠くの真っ赤なモミジの名所などには行かなくてもいいなあと思うようになった。もともと京都などの燃えるような“情念したたる”とでもいうような派手な紅葉は、「これでもか」と声高すぎて少し苦手だ。)
立ち止まってぎゅっとフォーカスしたり、サーーッとひいて林全体を俯瞰してみたりしながら、先発で散ってしまった落ち葉の上をひとり(+ときたま犬)長靴できゅっきゅと歩く。
やっぱり青空に透かして見たいよなぁ、、この台風さえ乗り切ってくれればなぁ、、と、小声でつぶやきながら。
大雨(+ひさしぶりの長い揺れもあった)の一夜が明けて。
お昼過ぎにかけて恐れていたとおり風が強く、ゴウという音をたてて木が揺れるたびに、ハラハラ、やきもき。
思えばわたしの秋は、晴れの日も、雨の日も、色づいた葉っぱが散ってしまうことを、ただただ怖れ、心配し、「風立つな!」とブツブツ言うばかりに費やされている。
今、目の前の美しさを見ずに、過ぎてしまうことだけを呪っている。
昔からよく、楽しみ過ぎる旅行に出発する前から帰ってくることを考えて落ち込んだり、大好きな漫画は読み始めながらも終わることを悲しんだ。あれに似ている。
この季節が大好きで、待ち通しすぎて、来たら来たで「通り過ぎてしまう」ことが怖くてジタバタする。
心配性も貧乏性も通り越して、単なるおバカさんだ。
こっちの心配をよそに、振り落される葉は「散らば散れ」といさぎよく散っていく。
猫も、犬も、ときどき目の前に落ちて来る葉をおもちゃのように追いかけてみる以外、微塵も気にとめていない。
(フン、だってあいつらは色彩がわからないのだ。色が認識できるのは、人間とサルの一部と鳥だけだと聞く。鳥にはこの黄金色に燃える森はどう見えているのだろう。。)
願いや空しく、やっぱり2〜3割は振り落されてしまったかもしれない。
夕方近く、落胆しながら窓の外を見ていたら、雲が過ぎ、晴れ間が覗いて、西日がピカッと差し込んできた。
その瞬間、雑木林の下草の光の当たったところが、トパーズ色の猫の目みたいに輝いた。
まるでそこに金銀小判の山が湧いてでたみたいに。
枯れる間際の草木とお日様だけが作れる、光の色。
写真なんて人工的な道具には収められない、一瞬だけの天然の宝石のような光の色。
どうにもできやしないことを前に右往左往する愚かな人間に、よしよし、気持ちはわかったから、、と、神様が哀れみのご褒美を施してくれたようだった。
少々梳かれてボリュームダウンしてしまったとはいえ、もう数日は黄金色の林は健在。
自称「北軽井沢黄葉PR大使」としては、どうかこの風景をよそからのひとにも見てもらいたいと思う。
今を逃したら来年まで見られない天然のショー。見なきゃ損だよ、ヨッテラッシャイミテラッシャイ!
...... やれやれ。落葉の心配のあとは、他人の心配。
秋にかかるこの心配性の病いは、きっとこの先も治らない。
そんな病人のことは構いもせず、この黄色い「緞帳」が落ちたら、舞台はもう完全に冬のセットに「どんでん」だ。
明日は久しぶりのお天気マーク。とんでもなく美しいに違いない。
せめて1日くらい、終わることも、他人がどう見るかも気にせずに、もう一度とくとこの景色を目に焼き付けておくのだ。