◎今週末のスケジュールは
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(以下、数日前になんとなく書き連ねておいたことをUPしてみます。ダラダラと長いですのでおヒマなときに!)
近頃、気づくと「ひとり」でいることが多い。
もともと今は企業に属していないし、平日、仕事で出かけたり人と会うことがなければ「ひとり」でいたはずなのだけど、「ひとりでいる」ことをじっくり実感し直している、とでも言うか。
春、夏、秋の初めまで、なんやかんやと駆け足で、出歩いたり、仕事でひとに会ったり、家にいても誰かと連絡を取り合い、週末は週末で色々なお客さんと会い、とどめに10月初めのイベントで許容量MAXの「ひとと関わる」ことを体験した後に、ぽっかり仕事も落ち着いてしまったので(仕事というのは賑やかさが賑やかさを呼ぶようなところがありますからね…苦笑)、追いつこうとしたり追われたりという時間の流れからぽっと解放されてしまった。
気づいたら「あ、今、わたし、ひとりだ。」という感じ。
でも、寂しいという気はしない。
なんてったって、ひとりは自由だ。
子どものいない二人暮らし。相方と共有の生活ペースさえ乱さなければ、あとはいつ、小さな仕事のために時間を当てようが、本を読もうが、散歩をしようが、こっそりうたた寝をしてしまおうが、わたしの自由。
もちろん家計的な諸問題を考えれば、そんな優雅なことは言っていられないのだけど、それについてはいったんさておき、一年に数週間...いや、数日くらいは「ひとり」の時間をきっちり味わうということは、わたしみたいな人種には必要なことじゃないかと思っている。
わたしみたいな、というのは、もともとはひとりでいることが苦手なタイプ、という意味。
若い頃から「私、集団行動は苦手で…」と話すひとをずっと羨望の眼差しで見つめてきた。
たいていの場合、それは社会に不適合という意味合いを持つ恥ずかしい告白として洩らされる訳だが、わたしにはその告白は憧れを通り越して脅威にも感じられた。
かたや、団体行動が大の得意。
特定の団体のなかで、ある役割を果たせたり認められたりしてこその「自分」。
団体や集団の中でなら、割合大きな声を出すこともできる。
場の空気を読ませたらなかなかのレベルだと思う。
(そうなりたいと思ってそうなったのか、もともとの資質なのか、そこまではよくわからない。)
それが、突然、「はい、おひとりでどうぞ」と突き放されてしまったら、途端に何もできなくなる。
モノも言えず、頭も回らなくなる。
それまで他人の目を通してばかり見て来た「自分」は、鏡の中からいなくなる。
不安、というより、ほんとに何をどうしていいやら途方に暮れてしまうのだ。
そんな「ひとりが不得手」派には好都合なことに、今の世の中、どこもかしこも「繋がろう!!」をスローガンに、ひとりよりも群れることのほうを推奨してくれる。
コミュニティが大事。
シェアすることが大切。
時には見知らぬひととだって手に手を取って、さあ、みんなひとりじゃないよ、繋がって!
もちろん、ひとりで悩んで問題を抱え込んでしまうのは、事態を深刻化させるし、よくないこと。
ただ、あまりに「ひとり」を排除してしまうのも、どうなのだろう。
「ひとりの時間」から生まれるのは、けっして「孤独」や「負」のイメージが漂うものばかりではないはず。
最近(その「ひとりの時間」を利用して)読んだもののなかに、アンソニー・ドーアというアメリカ人作家の短編小説集がある。
もうデビューして10年以上経つベテランなので、今ごろ出会ったのは遅すぎるくらいなのだが、その彼の短編ひとつひとつに、しばらく感じなかった軽い衝撃を受けた。
硬質なのに胸の暖かいところを撫でる柔らかさや透明感ある美しい文章にも、それを書いているのが酸いも甘いも悟りきった初老の熟練作家ではなくわたしと同い年の2児のパパだということにも。
この年になれば大作家と言われる存在が出てきてもおかしくはないのだけれど、問題は中身。
今の倍くらい年を重ねたひとじゃなければ見えないはずじゃないかそれは?というものまで丹念に書込まれている。
そのときになんとなく、このドーアというひとは、「ひとりの時間」とたっぷりと無駄なく付合ってきたんだな、と感じた。書く時間も、それ以外の時間でも。
(同年のわたしが群れてキャッキャとはしゃいで時間を費やしていた間に。)
きちんとモノを見て、咀嚼して、それを自分の言葉に置き換えて理解したり、誰かに伝えるには、それなりの「ひとりの時間」が必要。
「繋がろう」の風潮は、どうしても、そこをすっ飛ばしているような危うい感じがしてしまう。
表に見えているほんの一部を掬って、褒め合ったり、慰めたり、ときには意地悪く揚げ足をとったりし合う、SNSのような遊び道具は、この「ひとりの時間」をさらに侵食してくる。
その瞬間ひとりでいることには変わりないかもしれないが、目的はやっぱり群れること、繋がることの安心感を得るためだから、ひとりでいるようで、そこにはひとりもいない。
そのSNSなどの場にしても、注意深く見ていると、裏側にきちんと「ひとり」を自覚しているかどうかで遊び方も違う。
ときどきハッと核心をついてきたり、揶揄するにしても誰かを傷つけるでもなくニヤリとするユーモアに置き換えられるようなひとは、大勢のその他とキャッキャとしあっているようで、ちゃんと「ひとりの時間」との均衡が取れているひとのように思う。
どうせみんなひとりが寂しくて傷を舐め合っているんだ、なんて見くびってうつつを抜かしていては、痛い目に遭うかもしれない。
まもなくシーズン閉幕を迎える「麦小舎」だが、今シーズンの傾向として「ひとり客」が増えた。
なんとなくそんな気がするだけかと思ったら、記録係の相方も「そうだ」と言っている。
これは嬉しいこと。
カフェは「ひとりスイッチ」をONにしやすい。
「ひとり苦手」派にとっても、「ひとり時間」の入門編にはうってつけの場所。
おおいに利用してほしい。
それに、今のわたしのように、なんとはなしに「繋がろう!」「共有しよう!」のキャンペーンに、お尻がムズムズしてしまう(おそらく)少数派のひとがいるという証拠でもあるなら、なおさら心強い。
ひとり客にとって居心地がよいことは、わたしにとっても理想の店のかたちだし、これからももっとお一人様に増えてもらえたらいいと思っている。
久しぶりに長々と書いた割に、「ひとりの時間」で何を得られたかという肝心の点については、まだ書くべきほどの中身もなく。
なにしろ(この年になって)若葉マークなものだから。これから修業を積まねばならない。
幸い、このあと山にはひとり修業にはもってこいの季節がやってくる。
泣いても笑っても、「やっぱりひとりは寂しいよ~」と叫んでも、だれにも届かない。
きっとすぐにも泣き言を吐いて、ねえねえねえ、と周囲にすり寄っていく姿を容易に想像できる。
けれど、すり寄りたくなる3回に1回くらいはぐっと踏ん張って、まずは自分のお腹に向かって、今抱えているのはどんな感情なのか、自分ではどうしたいのかを聞いてみる。
そんな騙し騙しのダイエットみたいなやり方で、少しずつ「ひとり」になる練習を始めてみようと思う。