2階のPCのあるデスクから、窓越しに浅間がよく見える。
夏は葉で隠れてしまうが、コナラがすっかり落葉した今は、白い山肌もくっきり。
昨晩も少し降ったみたいだから、今はまた裾のほうまでほとんど白い。
今日の日中は、てっぺんからぽくぽくパイプのように煙が上がっていた。
ここ数日、お昼くらいから強い風が吹き始めて、2時頃には西から浅間の上に黒い雪雲がやってくる。
それを見ると、のんびりデスクワークもしていられない。
山にかかる雲は、天気が荒れ始める記し。
あの雲がこちらに近づいて、冷たい風が吹き始める前に、百々の散歩、お風呂焚き、猫たちのエサやりをやらなくては。
(夏なら夕方5時前後にやっていることなのだけど。)
仕事がキリだろうがなんだろうが関係ない。
ダウンコートと耳付き帽をつかんで、慌てて外に出る。
思えば、ここでの暮らしは、知らず知らず、時計よりも、山や空が基準になっている。
雪雲に限らず、夏の夕立ちの前なども。
うちから見る山の位置が、ちょうどお天気が変わる南西の方角にあるからというのも大きいが、それぞれの「山」の麓に住む人は、いつでもなにかしら「山」が生活の基準になっているのではないか。
先日、八ヶ岳の麓のパン屋さん「山角」を訪ねて、店主の内藤亜希子さんから、ご自身が編集されたフリーの冊子「山ろく記」を頂いた。
そのなかで、内藤さんも書いている。
「わたしたちの風土にはまず「山」ありき。
生活の中、無意識の中、視界の中。いつも山をしょっている。」
(あとがきより)
八ヶ岳南麓、高根のあたりは、明るくひらけた温暖なイメージがある。
けれど、こないだお話してみたら、冬の「やつのおろし」がすごいらしい。
山から吹き降りてくる風が、なんでもかんでも(ドラム缶サイズのものでも!)飛ばしてしまうんだそう。
「住んでみないとわからなかったですねえ。ナメてましたね」と、それでもなぜか楽しそうに話す亜希子さん。
たしかに「山」は、そこにあるだけで眺めとして四季折々楽しませてくれるけれど、それだけでなく、その存在が生み出すその土地ならではの気象現象や、植生や生態系や、さまざまな特徴があって、山麓に住む人間も自然と影響を受けながら生活している。
昔から住んでいる人にはそれももう日々の暮しに染み付いていることだろうけれど、私たちのような「参入者」にはいちいち面白かったりする。
都会にいれば、自分の生活のペースは自分で決められる。
「山麓」ではそうはいかない。でもそれだから知恵や工夫も生まれるし、考えて暮らすようになる。
おのずと謙虚にもなる。(あんなドーンと大きなモノに逆らったり抗ったりできるものか!)
冊子「山ろく記」の今号のテーマは「自然」。
「『自然』といってもエコロジーとかそういうのでは一切ありません」と前置きしていたのを見て、読む前から共感を持てた。
「自然」というと、すぐに“エコ”とか”環境うんちゃら”みたいな形容詞がついてくる。
その見方自体が、まずすごく人間本意で、まったく自然ではなくて、時々うんざりしてしまうから。
(「クマ」を特集した雑誌「ユリイカ」のなかで、中沢新一さんが「『自然』に脱毛処理を施すと『環境』になります(笑)」と書いていて、まったくそう!と膝を打った。)
「山ろく記」には、このエリアに移住して来た数組の方が、思い思いに日々の暮らしを書いている。
どれも、とりたてて目立つ物語があるわけでも、大きな志しや野心があるわけでもない。
それが逆に、自然保護やエコロジー万歳!な内容よりも、すっと馴染んで、やっぱり山の自然はいいもんだと素直に思わせてくれる。
「自然」とは何か。
というテーマは、大きすぎて今のわたしにはとても語りようがないけれど、言葉にしようがしまいが、今の暮らしはそのなかでしか成り立ちようのないもので、私たちがどうしようと相手にとっては痛くも痒くもない。
そのなかでこちらはただ右往左往したりびっくりしたり嘆いたり感動したりうんざりしたり、そんな毎日を繰り返していくことが「自然」ってものなのかなと、今はぼんやり思っている。
「山ろく記」は、手元に数部あるので、興味ある友人知人はお知らせください。
冊子の話ばかりしましたが、「山角」さんのパンはもちろん絶品で、特に黒糖の入ったごっついカンパーニュ「黒丸」が美味しい。
シュトーレンも頂いてきたので、これからちびちび味わう予定。
さらにわたしは亜希子さんが描く絵の大ファンで、来年のカレンダーもこちらで購入しました。
山とかクマとか猫とか。来年になるのが待ちきれない可愛さです。