5月24日(土)に麦小舎で行なう「
白い花の季節の朗読会〜小舎で聴く立原道造の詩」を前に、道造さんのことを少し書いてみます。
朗読会は、ひきつづきお申込を承っております。
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立原道造という詩人について、私が知っているのはごく一般的な知識しかありません。
24歳の若さで夭逝した詩人。「ヒヤシンスハウス」などで知られる建築家としての才能。兄のように慕った堀辰雄との軽井沢・信濃追分での交流......
山麓に暮らし始めた頃、少し詳しく知ってみようと思ったこともあったけれど、実を言うと、彼の詩からあまりに強く匂ってくるナイーブさ、センチメンタリズムが少々苦手で、これまで詩集もろくろく開こうとしてきませんでした。
それだのに、不思議なことに毎年、ちょうど今ごろ、薄いブルーの空をバックに生まれたての樹々の新芽が笑うように風に揺れるこの季節になると、なんとなく彼の詩を思い出すのです。
手元にあるのは、ポケットサイズの「立原道造詩集」(芸林書房)と、再刊版の「盛岡ノート」。それに、古本屋で装幀に惹かれて求めた大判の復元版「萱草に寄す」の3冊。
すべてを諳誦できる詩もないので、いつも頭の数行だけ口にして、ええとこの先はなんだっけ、と確かめなければいけません。
数日前のある日、今年も芽吹きの森を見上げながら「あ、道造さんの季節だな...」と思い立って、ページをめくってみたら、いくつかの詩が、急に勢いよく、まるで昨夜、直接聴いたもののようにわたしに近づいてきたので、びっくりしました。
叙情たっぷりなのはもちろん変わらないのですが、それが鼻につくようなことはなく、さわさわっとした風が音もなく吹き抜けていったような気持ちになりました。
優しき歌 Ⅵ 朝に
おまへの心が 明るい花の
ひとむれのやうに いつも
眼ざめた僕の心に はなしかける
《ひとときの朝の この澄んだ空 青い空
傷ついた 僕の心から
棘を抜いてくれたのは おまへの心の
あどけない ほほゑみだ そして
他愛もない おまへの心の おしやべりだ
ああ 風が吹いてゐる 涼しい風だ
草や 木の葉や せせらぎが
こたへるやうに ざわめいてゐる
あたらしく すべては 生れた!
霧がこぼれて かわいて行くときに
小鳥が 蝶が 昼に高く舞ひあがる
前述の「立原道造詩集」の解説によると、立原道造自身は、自分の詩集についてこう書いているそうです。
僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなって、たしかめられず心の底でかすかにうたふ奇跡をねがふ。そのとき、その歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ。
詩というものを理解するには、一字一句間違いなく憶えていなくてはならないものと、つい堅苦しく考えてしまいがちですが、決してそんな必要はないと。
「不意に何ものともわからないしらべ」が胸の底のほうでざわざわしたのなら、それはもう、その人にとっての詩なのだと。
わたしの胸のなかにすっと吹き抜けた風のような形のない心持ちも、もしかしたら何十年も前に道造さんがあこがれた「秘密」の一種なのかな。
そう考えたら、いつも教室の隅で青白い顔で思い詰めている男子生徒(普段の私はちょっと敬遠している)と、放課後ひょんなことからお話してみたらすごく想像力豊かな魅力的な男の子であることがわかった!というような気分になりました。
(実際、中高生の頃の私は、頭は悪くてもスポーツができたりちょっとワルっぽい男の子ばかり追いかけていたから、たくさん魅力的な少年との出会いをみすみす逃してきただろうなあ、とここでふと余談に逸れたり...笑)
もうひとつだけ、この機会に引用したいのは、堀辰雄が道造に宛てた手紙からの一文。
君は好んで、君をいつも一ぱいにしてゐる云ひ知れぬ悲しみを歌つてゐるが、君にあつて最もいいのは、その云ひ知れぬ悲しみそのものではなくして、寧ろそれ自身としては他愛もないやうなそんな悲しみをも、それこそ大事に大事にしてゐる君の珍らしい心ばへなのだ。さういふ君の“純金の心”をいつまでも大切にして置きたまへ。
これを読んで、私はどうして道造の詩を苦手に感じてきたのか、ハタと気づかされました。
この“純金の心”のせいです。
たしかに昔、純金とは言わないまでもそれに似た光の粒を持ちあわせていたはずだけれど、実際の生活のなかではお腹の足しにもお金にもならず、余計事ばかり増えるので、いっそなかったことにしておくか、と見えないところに追いやってしまった自分の「珍しくはない心ばへ」が、さもしいこととして思い出されてしまうからなのです。
(そりゃあ20代半ばで幕を引けたなら、誰もがキラキラのままでいられたさっ、と、もっとさもしいことさえ毒づいてみたりして。)
追いやったつもりでも、内蔵のどこかに隠れていた私の小さな"純金”の粒が、爽やかさ100%の5月の空気に触れて、うっかり無防備に顔を出してしまうようです。
それもまた、騒がしい日常のなかできっとすぐまた姿を潜め、今、憶えたはずの詩もたちまち忘れてしまうに違いないのですが、それでもこうして5月が来るたびに、あるひとりの人が残した言葉を頭ではなく身体ごとで感じられるというのは、詩人というのはやはりオソロシイ存在なのだと思わずにはいられません。
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独り言が長くなりましたが、その道造さんの言葉を、また、朗読家・岡安さんという別の方の「肉声」を通して味わう今回の朗読会。
ほんとうに、この時期、この場所でしか味わえない体験ができるものと思います。
「朗読会」と聞くと、しゃちこばってしまって腰がひけてしまう、、、私もそうだったのですが、そのような人にこそ、気軽に、お茶をしにくる延長の時間として、楽しんで頂けたらと思うのです。
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そして、企画する際、まったく知らずにいたことですが、今年は立原道造生誕100周年なのだそう!
軽井沢タリアセンの「軽井沢高原文庫」では、ちょうど『
生誕100年 立原道造と軽井沢展』を開催中です。
この機会に、新緑とあわせて、軽井沢で道造さんを巡る旅に出かけてみてはいかがでしょうか。
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(どうでもよい追記:道造さんのポートレートを見るたび、かねがね、ドラマ化するなら嵐の二宮くんがぴったりだと思っているのは私だけでしょうか?(笑)
早くしないと、ニノも歳をとってしまうんだけどなあ。観たいなあ!)