この2〜3日、寒さが緩んでくれている。
屋根からぽたぽたと雪融け水が落ち、ガチガチに凍っていた林道も川のように流れていく。
鳥たちの鳴き方まで、ちょっと春先の頃を思わせる。
外に出るときに身構えなくてよいのは嬉しいけれど、これから先の後半戦のことを思うと、ここであまり気を緩めてはいけない、とすぐに自分を戒めてしまう。(貧乏性というか、山暮らしの悲しい性というか…。)
この冬は、序盤から否応なしに飛ばしてきてしまったから、薪の蓄えもだいぶ乏しくなってきた。
1月末はまだまだ折り返し地点。なんとかやりくりしていかないと。
引きこもりな日々に加えて、胸をざわつかせるニュースが続いて、鬱々としてしまいがちなこの頃。
それでも、晴れた日に外に出て、目の前にバーンと現れる真っ白く凛々しい浅間山を見ると、モヤモヤした気持ちがだいぶ吹っ飛んでしまうから、山の力はすごいなあといつも感心する。
もしあそこに浅間山がなくて、周囲が真っ平らなただの高原だったら、ここでの暮らしはもっと味気なくて、すでに飽き飽きしてしまっていたんじゃないかと思う。
浅間のことを「寝観音」と例えるのを聞いたことがあるだろうか。
こちらに暮らすようになってしばらくして、そんな話を人から聞いてはいたのだけれど、なんとなくピンとこないまま、別の角度から見た言い伝えなんだろうなあと思っていた。
数年前の冬、うちのすぐすばのひらけた場所から、いつものようにぼんやり山を仰ぎ見ていたら、思わず「ああ!」と声が出そうになった。
冬の山は、雪に覆われて山襞の陰影が夏場よりもくっきりはっきり見える。
わが家のある北軽井沢方面から見る浅間は、浅間本体の向かって右側(西側)に黒斑山や蛇骨岳が連なって見えるのだけれど、その黒斑のあたりの盛り上がった部分がちょうど「顔」のように、緩やかに膨らむ浅間本体が寝そべった姿の「お腹」のように、はっきり浮かび上がって見えたのだ。
「顔」の部分はよくよく見ると、閉じた瞼や鼻や口元のようなラインまである。
真っ白な装束の裾を広げて、西の方角を頭に髪をうしろにたなびかせ、ゆったり目を閉じて寝そべる観音様。
おまけに日によっては、「お腹」のてっぺん、ちょうどおへそのところからぽくぽく煙を吐いて、まるでおへそでお茶を沸かしている!
なんてご機嫌でチャーミングな観音様!!
その姿。写真だとなかなかうまく伝わらないので、ぜひ実物で確認してもらいたいもの。
同じ白い雪山でも、天気の加減で「観音度(?)」がはっきりする日とぼやけてしまう日もある。
でもひとつ確かなことは、わが家の方向からの姿がもっとも美しい顔の輪郭を見られるということ。
これが数百メートル、東に西にずれてしまっては、この表情は見られない。
これは私の秘かな自慢だったりする。(気づくのが少々遅かったけれど。)
私には特別な信仰心はないけれど、「山には神様がいる」という古くからの山岳信仰には共感できる。
山のふもとに暮らす人にとって、いつも動かず、自分たちを見守るように在る山は、自然と心の拠り所になる。
冬の時期なら尚のこと。古くからここに住む人たちが、その姿を観音様に見立てて、厳しい季節の祈りや救いの対象にしてきたと考えると胸がジーンとする。
そのありがたみは、今のように暢気な暮らしをしている私なんかが眺めて感じるものより、数百倍、崇高なものだっただろうなぁ、とも。
夕暮れどき、観音様の白い衣装がほんのりピンクに染まり、そのうちだんだんと紫紺の闇に包まれて見えなくなっていく数分間は、なんともいえない美しさ。
うんざりするくらい寒くても、どこにも出かけられなくても、ほかに娯楽がなくても。
この観音様を見られるのも数ヶ月と思うと、冬の一日一日も大事に過ごさねばと思えてくる。
ということで、浅間の寝観音様。
こちらもぼちぼちがんばりますけぇ、もうしばらくは、機嫌を損ねて寝転がりながら腹からどかーんと火を噴かねえようにだけ、お願いするでござんす!!
(お正月の写真の再掲ですが…。右側が顔です。ほら、観音様に見えてきませんか!?)
(こちらは少し角度を変えて、大屋原地区から。これだと、顔のあたりがメカっぽく見えます、笑)