昨日、近くを通る機会があったため、ある場所を訪ねてきました。
私にとっては、北軽暮らしの「原点」ともいえる、懐かしい場所。
この雑木林に囲まれた可愛らしい建物は、今から35年程前、私の生まれるもっと前に、母方の家族__祖父母と3人のお姉さんたちとの計5組__でお金を出し合って共同で建てたもの。
「別荘を持つ」なんて考えもしなかった堅実な祖父母でしたが、ひょんなきっかけからこの北軽井沢のことを知り、試しに見に来てみたら気に入ってしまったそうです。
100坪を20坪ずつ。登記簿に5組の名前を連ねて、笑われたそうです。
山荘の愛称は、5家族の頭文字を取って「FUSIK」(フュージック)と名付けられました。
5組のなかでも一番若く(当時まだ20代の後半)、フリーの職業柄、時間の融通もきいた私の父が、土地選びから家作り、家具などの搬入まで、率先して動くことになりました。
当時は新幹線どころか、高速道路ももちろんなく、(それ以前に父ははじめ免許も車もなく、こちらに通うことが頻繁になり始めてから、必要に迫られてどちらも取得することに。)東京方面からは、信越線で中軽井沢まで来てから西武バスか、もしくは吾妻線で終点の長野原口に着いてから(今のようにその先の万座鹿沢口などはなかったそう)、国鉄のバスで登ってくるしかありませんでした。
大きな家具などは鉄道の貨物で運んでもらい、駅で受け取るために、1日に2本しかないバスで降りて、ひたすら待ちわびることもしばしば。
今の便利で手軽な状況とは大違いです。
私と弟が生まれてからも、夏冬問わずしょっちゅう訪れて、家族で、また時には叔父、叔母、いとこも一緒に楽しい時間を過ごしました。
母が末っ子のため、いとこたちもみんな年上で、私や弟はよく可愛がってもらいました。
夏には近くの森の中の散策。あの頃は今では考えられないような距離をよく歩きました。
林や小径に自分たちだけの名前をつけて(「大草原」、「蟻の道」など)、探検気分。
夏はプリンスランドにあったプールや、今は閉鎖されてしまった照月湖でポニーやボートに乗ったり、冬は、その照月湖や、こちらも今は見る影もない鎌原湖でスケートをしたり、草津や鹿沢にスキーに行ったり。
夜は夜で、トランプやボードゲームに大はしゃぎ。テレビやファミコンなどなくても、遊びは山のようにありました。
遠くまで出かける日を「大」の日。近くの散歩程度の日を「中」の日。雨などでどこにも出かけない日は「小」の日、と呼びながら、夏休み期間などは、あっという間に過ぎていきました。
北軽井沢の土地に魅了された父は、私たちが小学校の頃、さらに本格的に暮らせるように、浅間山の見える土地を探し、それが今、私たちの住んでいるこの場所です。
「FUSIK」からは、車で7〜8分の距離。
「FUSIK」は、その後も、叔父叔母やいとこたちが大事に使い続け、今ではいとこの子供たちが当時の私たちのように森の家生活を楽しんでいます。
昨日、立ち寄ったときにも、おそらく誰か滞在中だったようなのですが、ちょうど不在。
こっそりテラス側まで回り込んで、中を覗かせてもらったら、石油のストーブや家具の配置などがそのままで、とても懐かしく、その頃の思い出がぶわ〜っと蘇ってきて、懐かしく胸がいっぱいになってしまいました。
このおうちがなければ、私の今の北軽での暮らしも、おそらくあり得なかったはず。
その建物が今も変わらず残っていることは、なんともいえず嬉しい気がします。
30年以上の月日がたって、少しずつ変化はあっても、幸か不幸かここ北軽井沢はお隣の軽井沢ほど大きく環境が変わることもなく、この周辺も当時の記憶の中の風景とほとんど変わってはいません。
これからの30年も変わらずに、もし私たちに子供が出来たら、同じように森の中の探検ごっこを楽しめるような、北軽井沢の姿であってくれるように、願っています。
* * * * *
「FUSIK」からすぐそばの、渓流へと下る急坂。雪が積もればソリやスキーができました。
こちらもちかくの「青い橋」(青い金網の柵があるから)からの小川の流れ。水は変わらずきれいです。