明日からのシルバーウィーク期間中の営業日のご案内:
18日(金)OPEN
19日(土)OPEN
20日(日)お休み
21日(月祝)OPEN
22日(火祝)OPEN ★内藤亜希子さん在店。「山角」のパンの販売と、特別フードメニューあり。
23日(水祝)OPEN ★同上
10:00〜16:00 LO、16:30 Close
22、23日以外にも、通常の喫茶メニューに加えて、スープセットなどの軽食を数食ですがご用意します。
展示中の「ON THE GROUND」、どうぞお楽しみください。
ここからは、長い長い、今日という日に感じたとある雑感。個人的な内容ですので、興味のある方だけに… 。
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けれど今、
(と唐突に書き出したのは、このときは今日のお昼前、私はtwitterで、「豪雨災害の地域にまた強い雨の予報があり、津波も迫っているというのに、安倍さんはそこで目を瞑って茶番の傍観者を演じている場合か!(ただちに今日の委員会自体を中止にすべき)」というコメントを残した直後だから。それに続けて、ここ最近考えていたことを呟こうと思ったけれど、長くなりそうだったので別途テキストファイルに残し、不完全な内容ではあるけれど今日の雑感としてここに記録しておくことに。)
けれど今、この狂乱のなかで、冷静に振り返ってみたいのは、法案をめぐる様々な動きのなかで、国会の中でも外でも、SNS上でも現実生活でも、結局、賛成か反対か、そこだけが議論の向かう先になっていたのではないかということ。
賛成派は賛成の、反対派は反対のその主張だけを張り上げて、いかに相手の考えが愚かで悪で間違いであるかを、揶揄まじりに訴えるばかり。(特にSNSでは、短い文面でどれだけ切り口鮮やかにスマートに表現できるかを競っていた感も。)
私自身も周りの人とこの問題を話題にするとき、話せる相手が皆いわゆる”反対派”同士だったから、そんな語調に終始していた気がします。
私の目の届く範囲が狭かったからかもしれませんが、相手の主張をいったんまるごと受け止めて、飲み込んで、ときには自分の主張も譲歩して、その上で「じゃあこの先、どうしましょうか」という話は聞こえてきませんでした。誰からも、どこからも。
どんな物事にも表と裏があり、よい、わるい、の二分法では割り切れないものだということを、ふだんはみんなぼんやりとでも意識して、バランスを取りながら過ごしているけれど、こと今回のようにテーマが「戦争」や「生命」に関わるものになると、YESかNOか!チョウかハンか!と迫られて、それまで相手に向け開かれていた耳が塞がれてしまう。
曲解だと怒られるかもしれませんが、その早急に二者択一を迫るやり方こそが、もしかしたら私たちがいちばん危惧する「戦争」というものの根本にあるものかもしれないのに… 、です。
(同じように「これは闘いだ!」とか「倒せ!」などの威勢のいよい文句も苦手です。)
こんなことを書きながらも、今回の法案をめぐる政府のやり方__憲法の無視、でたらめな答弁、民意の軽視、数をバックにした強引な進め方__には、怒りしかなく、キーボードを打つ手も震えるほど。
法案には断じて反対ですし、安倍総理をはじめとする現政府には(できれば過ちを認めた上で)退陣してもらいたい。
ただ、この反対の意志と怒りだけでは、いつまでも単なる“反対派”のまま。
生理的に湧き上がる怒りや憎しみをぐっとこらえて、どうにかして、どこかで、「この先」の話へと帆先を向けていかなければ。
YESかNOか、白か黒かの境界の間にあるグレーの領域にも目をやり、そこに「この先」のヒントを探す。
それは、”賛成派”からは「ほらやっぱりユートピアでしかなかった」と嘲笑われ、“反対派”からも「なにを悠長なことを」とけなされ、なにより自分自身のなかの「どちらかはっきりクリアにしたい」という欲求を押さえ続けなければならない、途方もない荒技です。
グレーなところにずっと留まり続けるのは、収まりが悪く、居心地のよくないことだからです。
さらに傍目には、(そしてよっぽど注意しつづけなければ事実ほんとうに、)この有事を前にちゃらちゃらと高みの見物、何も行動しない身勝手なだけな人だと思われてしまう。
そもそも、自分一人では答えはおろかヒントすら見つけ出せないまま、短い人生なんて終わってしまうかもしれない。
(正直、国防に関することなんて、とても国民一人一人の手に負える問題ではありません。だからこそ国は、わからんヤツは黙ってろとばかりに強引な手を使ってきたのだと思いますが、その「国」といっても結局はごく一部の一人一人の集まりなだけ。そこに危うさを感じずにはいられません。)
だとしても。
今のように、これからの国のあり方や個人の生活の運命を左右すると言われる問題が沸き起こるたびに、ぶつかり合う境界線上で、どちら側にも引っ張られず、冷静に、なるべく急がずに、対立を煽るのではなく、噛み合わないことそのものも認めつつ、じゃあどうすれば?ということを、身の回りの手の届く範囲から、個として考え、試してみる。
目に見える結果が出なくても(結果が出るのは数十年先になることも覚悟しながら)、淡々と、それこそ「粛々」と。
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ここまで書いた頃(夕方4時半過ぎ)、デスクトップに同時に立ち上げていたtwitterのTLに、「これが採決なの?」「なにこれ」という投稿がなだれこんできました。同時に、いい大人たちがもみくちゃになっている光景も。
衆議院のときも同じものを見たし、今回も予想したとおりの姿ですが、みっともない以外のなにものでもなく、怒りも通り越して呆れてしまいます。
この光景を、若い人や子供に、なんと説明したらいいのやら。
降りられるものなら、いーち抜けたっ、と、この国の国民から降りてしまいたい。
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ああ、でも、だからこそ。
今この瞬間の怒りも、なすすべのない絶望に近い気持ちや、もうどうにでもなれと投げ出したい気分も、それやこれやすべてのモヤモヤを、一過性のものにしないで、グレーの場所に留まりながら、自問して、そこから少しでも気持ちよい風を、自分にも、周囲の近しい人たちへも吹かせていけるかどうか。
書けば書くほど、なんだよそのきれいごとはという突っ込みが(他の人から言われるまでもなく)頭の四方八方から響いてきます。
結局は自分が無力であること、なにもできないことを、前もって言い訳してるだけじゃないかとも。
そう思われても仕方がないですが、このモヤモヤを一度整理しておくためと、情動的で忘れやすい自分への戒めのために、無益なことは承知で、ここに今日の雑感として記しておこうと思います。
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ちなみに。
「境界」について私がぼんやり考えていることは、ほとんど梨木香歩さんの著書からの受け売りです。
主義主張、歴史観、国、民族、宗教などの「境界」をテーマに、2004年に書かれた『ぐるりのこと』。10年後の、さらに不安定さを増す今の社会を予見していたかのような鋭さと、同時に曖昧なものもよしとしてくれる柔らかさ。未読の方にはぜひとも読んでいただけたら。
同時に、つい先日発売されたばかりの長編ファンタジー『岸辺のヤービ』も、ささくれた気持ちをしっとりと、ふわふわと落ち着かない気分は優しく毛布にくるんでくれるような、今こそ待ってましたな物語。子供の頃、一度でも「お話」にワクワクした経験があるひとには、全員にお薦めしてまわりたいくらいです。
そして補足。
賛成か反対かだけなのだろうか… と書きましたが、やむにやまれず「反対」の意志をデモという形で表した方たちには敬服の思いしかありません。
こっちに暮らすようになって群衆や人混みがまったく苦手になってしまったことと、東京行きのタイミングが合わずに行けずじまい。
根底に同じ思いがあったとしても、実際にそこに行ってみなければわからないことがあるはず。
特に若いひとたちが、はっきりと自分の言葉で真正面から異を唱える姿を見て、その年の頃は自分のことしか考えておらず、今になってもその場にいない自分を恥じました。
いよいよ採決かと言われていた昨日は、私の父も静岡からひとり向かったとのこと。
私はそんな父の行動力を尊敬し、その父から「お前はどうするんだ?」と問われることを、いつもいちばん怖れているような気がします。
「これから」の糸口はどこにあるのか。
明日も、1年後も、10年後も、ぐずぐず、ねちねちと、考えつづけるのです。