麦小舎の店内の一画に、「Oさんの本棚」という名の本棚ができました。
本のセレクトと提案をしてくれたのは、同じ県内で本の仕事をしている「suiran」の土屋くんです。
土屋くんと「Oさん」との出会いのことは、彼の日記やSNSで見ていました。
しっとりとした趣のあるお宅に据えられた大きな本棚。
そこに静かに並ぶ、ひとつひとつ丁寧にパラフィンをかけられた山の文学の本。
ほとんどが古い年代のもので、今では絶版になってしまった名作ばかり。
ただ、それらの本が単なるコレクションや装飾としてではなく、持ち主が長年、愛おしみながら何度も手にしてきたのだろう雰囲気が、写真からも伝わってきます。
背表紙に見えるタイトルや、本棚全体の佇まいが、懐かしい記憶のなかの祖父の家のものに似ていました。
持ち主が不在となってしまったそれらの本を、土屋くんが引き取ることになり、その一部を麦小舎でも置きませんか?と声をかけてもらいました。
「山の本が多いから、鳥の声が聞こえる森のなかで手に取ってもらえたらいいと思って」と。
もちろんもちろん!こんなに嬉しいことはありません!
たくさんある本の中から、さらに土屋くんが選り抜きを揃えてくれました。
串田孫一、辻まこと、尾崎喜八、庄野英二らの、山や旅の本。
宇都宮貞子の草木の本、中西悟堂の鳥の本、そしてヘッセの詩集など。
特にクシマゴさんの随筆はずらり勢揃い。探していた一冊がここにあるかもしれません。
どれもこれも、発行年を疑ってしまうほど、状態のきれいなものばかり。(持ち主の元でどれだけ大切にされていたかがよくわかります。)
こちらの本は、隣接の「キジブックス」小屋ではなく、母屋のカフェの店内にあります。
コーヒーとともに、ゆっくりと手に取って、じっくりと吟味の上、お選び頂けます。
今のところ、期間を設けず長く置かせてもらう予定ですが、良い本との出会いはなるべくお早めに。
でないと、店主が端から買い取ってしまいそうですから!
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それにしても。
山の本って、どうしてこうもそそられるのでしょうか。
「Oさんの本棚」にもある、辻まことの画文集「山の声」のあとがきには、こう書かれています。
炉辺というのは不思議なものだ。炉を囲んで焔を見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。(略)相槌を打っても打たなくてもいいのだ。語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を濾してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。
山の中の木樵小屋や礦夫宿に泊って、ただ漠然と居心地よく淹留できた時代は過ぎさりつつある。薪を燃す囲炉裏はストーブに替り、そのストーブも油を使うようになっては、炉辺談話もピンポン玉のようなテレビ型のやりとりになるのは当然だろう。
人と人との間に燃える焔がなくなると、言葉はどういうことになるか。その変化を文化だの進化だなどと私にはおもわれない。
請求書や受取りの断片。大方は守られない約束手形のような会話を私は軽蔑しない。私もまた一生懸命そこで暮らしているのだから。しかし人はパンのみで生きるにあらず……である。
で私はささやかな薪を拾って、ここに並べ、小さな焔を立ててひととき囲炉裏の仲間にしてもらえればとおもうのである。
これを読み、ああそうか、と思いました。
山の本を読みながら感じる親しみや安らぎは、たしかに、火を囲んでただぼんやりとしている、あの居心地の良さに似ているのです。
火のまわりで、大声でがなりたてる人はいません。
くどくどとお説教をしたり、したり顔で自慢話をする人もあまりいないでしょう。
沈黙と沈黙の間にぽそっと交わされるのは、きっと、ほんのたわいもない話。
でも、一見なにも「生産的」ではない、無為ともいえるような会話や時間が、逆にいつまでも心に残り続けたりします。
炉端が消え、「人と人との間に燃える焔が」なくなってしまった今。
Oさんが大切に残したような本に惹かれてしまうのは、そこに暖かな炎の最後の熾き火や消し炭が残されているような気がするからなのかもしれません。
こちらの本はすべて販売しております。
通販はいたしておりません。
どうぞ、店内でお手に取って、お選びください。