3月に入って、寒さがぶり返してきて、今晩も薪ストーブを点けている。
「ひなまつり」と言われても、こちらで桃の花が咲くのはまだひと月も先の事。
実感が湧かない。
怒濤の日々が少し落ち着き、やっとじっくり本を読める時間を取り戻せるようになった。
読み始めたのは、文庫化されたばかりの、梨木香歩のエッセイ『
春になったら苺を摘みに』。
梨木作品は結構読んでいて、ファンタジックな童話的なものから、日本ならではの妖怪との交流を(おどろおどろしくなく、むしろ痛快に)描いた『家守綺譚』や、本屋の店主Y嬢が絶賛していて私もハマった『村田エフェンディ滞土録』など、小説も好きだが、なんといってもエッセイが秀逸。
この『春になったら...』も、自身のイギリス留学時代の交友や暮らしを振り返った内容に過ぎないのだが、登場人物ひとりひとりがしっかりと掘り下げられて皆魅力的であるところや、異国での筆者の目線があくまで客観的に(どちらかといえばクールすぎるくらいに)、世界と、世界における日本、個人を捉えているところなどは、どこか須賀敦子にも、また、ストイックなまでに自己の内面と対峙しようとする姿勢は神谷美恵子にも通ずるような(どちらも私の尊敬する女流作家)凛とした強さを感じさせる。
エッセイなのに、ぐんぐん魅き込まれて、先を急いでしまうくらい。
特に彼女が潔くカッコいいと思えるのは、こんなセリフから…
__観念的な言葉遊びはもうたくさんだった。文字の内側に入り込んで体験したかった。
__日常を深く生き抜く、ということは、そもそもどこまで可能なのか。
普段、おちゃらけた毎日を過ごしている者には、耳の痛いような…。
でも、日々をこうした観念のもとに過ごしている人間とそうでない人間の人生の間には、大きな大きな隔たりが生まれるだろうな、と、ハッとする。
中の一章に、彼女が小雨のふりしきる湖水地方の原野をトレッキングしながら、言いようのない不思議な懐かしさに捕らわれるシーンが出て来る。
その懐かしさは、その後、スコットランド、アイルランドへと旅を続けるなかで、ずっと彼女にまとわりついて離れない。(このあたりのことは、もうひとつのエッセイ『ぐるりのこと』にも書かれていたはず。)
その懐かしさの原風景はなんなのか、を自らに問いつめた彼女は、次のように気付く。
__この親わしさは何なのだろう。子どもの時から知っているような。そう、時を超えて子ども部屋に通じているような風。
ああ、そうか、子ども部屋だ、と思った。
旅人・異邦人である著者が、荒涼とした岩場で、色のない湖を眺めながら、想いがふっとかつて過ごした「子ども部屋」へと還るこのシーン、に、なぜか鳥肌がたってしまった。
私にも、同じ想いがある、と感じた。
もちろん、その場所を訪ねたことも、辿ってきた道筋も違うに決まっているのだけれど、もし、私もその場所にたったら、同じ事を思えるような気が、猛烈にした。
なんだろう、自分でもびっくりするくらいに、すごいシンクロ感を味わってしまった。
必ず、近い将来、訪ねなければ。彼女の歩いたその場所を。
思わずそう誓ってしまった。
(もともと、アイルランドは、近年私のなかで、一番訪れてみたい場所でもあります。)
エッセイでこんな高揚感を感じたのは久しぶり。(なのに、そのことをうまく伝えられないことがとってももどかしい。。。)
日本語も美しい。
梨木香歩さん、実物はどんな人なんだろう。そういえば、カバー写真とかも見たことがない。
この本、表紙写真が星野道夫さんという、嬉しい特典つき。
今の時点で、本年度のマイナンバーワン・エッセイです。