近頃、ワケあって、本に囲まれて1日を過ごしています。
ともだちが開いてる、この地域唯一の本屋さんの、レジ番に駆り出されているのです。
(定職に就かない人間というのは、意外と方々からお呼びがかかるものなのだなぁ、と、この身分になってから知りました・笑。自慢にはなりませんが。)
「活字中毒」ならぬ、「紙媒体中毒」の私にとって、本屋さんでのお仕事は、ずっとひとつの憧れでした。
四六時中、本たちに囲まれて過ごせるなんて、なんという快感なのかしら、、あぁ〜ん....♪
という妄想も束の間、いやいや、これがどうして、なかなかに大変な重労働なのでアリマス。
来る日も来る日も(と言えるほど、まだ働いちゃあおりませんが)、段ボールいっぱいに詰め込まれ、または、あの固い黄色のビニールテープみたいなのにグルグル巻きにされた書籍や雑誌が、次々に届くので、ガシガシと荷をほどき、数を数えて、棚に並べてみたり、積んでみたり。
はじめのうちは、自分のお気に入りを見つけては、ちょっと、あの、なんていうのでしたっけ、「面出し?」して置いてみたりして、それが手に取られたり、買われていったりすると、うひょひょ〜、と有頂天になり、レジまで来た客に対して「お前はなかなか話の分かるヤツじゃぁ〜ないか」と過剰なまでのホスピタリティを示したりして、何も知らない客にしてみれば不気味極まりない店員と化します。
私が思うに、これは『新人書店員』が陥りやすい典型的なパターンなのではないか、と推察します。
これが、週刊誌の発売日がうっすらと憶えられるようになり、月刊誌の搬入が一巡りした頃になると、(私の場合はそこまでも行ってませんが、)どうもだんだんと、『本』が『モノ』にしか見えなくなってくる。
ドカドカと運び込まれた本が、そのままキレイさっぱり引き取られていけば、それに越したことはないのですが、もちろんそんなことはあり得なくて、一定の期間が過ぎた本(雑誌)たちは、またごっそりと窮屈に箱詰めされ、来たときと同じようにグルグル巻きにされ、いづこへと送られていきます。
その状態になった本たちは、もはや元気もなく萎れ果て、ただの『幾枚かの紙の束』となっていて、その姿は、きちんと商品として金銭と引き換えに所有者のもとに渡り、そこでモミクチャにされて、やがて「古紙回収場」または「B○OK OFF」へと流されていく者たちよりも、もしかしたらもっと悲しいような気がします。
こんな小さなお店からでさえ、定期的に戻されていく『成就されなかった本たち』。
全国の本屋さんからの分を合わせたら、いったいどれくらいになるんだろう。そして、彼らは、どうなってしまうのか?
その『紙の束』を作るために、どれだけの数の人たちが、躍起になって(時には命がけで)スクープを追いかけたり、三日三晩徹夜して原稿を書き上げたり、文字のサイズが1ミリ大きいか小さいかで喧々諤々の争いを繰り広げてきたことか....。
そう考えてしまうと、もしかしたら人間は、(あくまで出版業に携わってる人間は、ということですが、)とんでもなく、不毛で馬鹿げた、おまけに環境にも良くないことを繰り返してきちゃってるんじゃないだろうか、と、他人事ながら心配になってしまいます。
そんなところまで想いを馳せてしまったら、もう怖くて、ページを開けなくなってしまうし、かといって、じゃあ可哀想だから私がすべて引き取ります!って訳にもいかないし。
なので、ただもう無心に、「これは本じゃない、雑誌じゃない」と思いながら、パッキングするしかないのです。
この、いったん「本を本として見られない」時期を経て、ふたたび、「とはいえ、やっぱり本が好き。自分の好きな本を売りたいっ」という心境にまで達せられたときに、はじめて、そのひとは『真の書店員』として、その場に存在することになるでありましょう。(←未知なる領域のため、もちろん推測でしかありませんが。)
嗚呼、真の書店員への道のりは遠い・・・
って、いやいや、ただのお手伝いなんだった。。
数坪の小さなお店の、ましてやGW前のこの時期。
現実的にはとっても暇で、空いた時間に、シコシコと内職してポップを書いてみたりなんかしています。
ぽけーっとしてるので、だれか遊びに来てください。
(GWには、そうも言ってられなくなります。なにしろ、極端なもので。)
閑散としたお店が明るくなるよう、お花を生けました。