その大きくずっしりとした鉄のフライパンは、うっすらと焦げの膜がついているものの、「人の手」によってよく使い込まれた安心感のようなものが感じられます。
フライパンの持ち主は、一昨年の秋まで、北軽井沢である意味「伝説的な」ビストロを開いてきたM氏。
昨年の春に、残念ながら亡くなられ、お店もたたんでしまいました。
その「ビストロ・L*****」について、私たちは多くのことは知りません。
うちから、冬であれば木立越しに建物が見えるくらいの距離にありながら、逆にあまりにも近かったことと、外食嫌いだった父のおかげで、家族で伺うことはしませんでした。
それが、たまたま一昨年の秋、地元の友人に誘ってもらい、数十年が経って初めてお店に足を踏み入れ、そこで、絶品メニューと、美味しいワインを頂く機会にありつけました。
Mさん夫妻とも、初めてまともな挨拶を交わすことができ、陽気にお喋りをしながらも、てきぱきとお皿を仕上げていくM氏と、横で穏やかに微笑む優しい奥様と、今後ともどうぞよろしく...と、お話をしたのでした。
M氏はお酒が大好きで、それでも健康上の理由からお医者様にもストップされていて、私たちと一緒に飲めないことを、心底残念がっておられました。
分厚いのにとっても柔らかい極上ステーキまで堪能して、満腹になって表に出ると、噴火後まもなかった浅間山の火口付近は、ぼんやり赤くなっていて、みんなでそれを眺めました。
まさか、あれが、最初で最後の訪問になってしまうなんて、思いもしませんでした。
その日から数ヶ月、今から約1年ほど前に、M氏は急逝されました。
まもなく奥様も北軽を離れてしまうので、お店のものを色々と処分するということで、私たちもいくつかお裾分けを頂戴してきました。
その中にあったのが、このフライパン。
さすがプロが使ってきたものだけあって、重たくて、私は両手で持つのがやっとです。
M氏の詳しい経歴など、存じ上げないのですが、相当のキャリアをお持ちだったことは確かで、こんな辺境の地にありながらも、東京や、もっと遠くからも、毎年必ず通うという常連さんの話をよく聞きました。
あるひとは、「ビストロ・L*****」のクローズを聞き、北軽井沢のひとつの時代が終わったね、と言っていました。
このフライパンが手に馴染むようになるには、まだまだ時間がかかるでしょう。
それまで、大事に、大事に、使っていければと思います。