頭の奥の方に、湿った脱脂綿をぐぐっと押し込められたような、息苦しくて鈍重な気分から、抜け出せずにいます。
(関係ないけれど、「どん」という言葉たち。鈍、曇、貪......。日本語の響きと意味合いの密接さ。鈍、曇、貪。鈍、曇、貪。どんどん「ドン」になってきます。「丼」は違うけど。)
おそらくひとつの理由は、春から働き方のスタイルを変え、相変わらず不安定な状況であること。
ちょこちょこと継続してもらっている仕事の取材や打ち合わせに出かけたり、新規の企画のミーティングに参加させてもらったり、なにかと気ぜわしく、忙しくはしているのですが、その行動と見返りとのバランスが取れているのかどうかという不安や、先の見えないことへの焦燥。
自分からアピールしていかなければ、何も動いていかないこともわかっているけど、不安や自分に対する不信から、なかなかそれも踏み出せず。
時間の使い方にも、まだまだ慣れなくて、何からすべきかオロオロしているうちに、無駄に流れてしまうばかり。
何物にも所属しないで、自分の足だけで立ちながら、社会に参加していくということは、肉体面・精神面ともに、相当のタフさを要求されることを、あらためて痛感。
父をはじめ、諸先輩たちのスゴさを、今になってヒシヒシと。
スゴいことだったのですね。
もひとつは、これからのプランについて。
色々な人と会い、色々な話が聞けることは、役得でもあり、反面、時々思いもかけなかった方向から、突然グサッとやられることもあり、これまた気が抜けない。
私たちの周りには、たまたま優しい人たちが多かったので、これまでも「週末カフェを開いてみます」と話せば、素敵だね、がんばってね、遊びに行くからね、と、おおかたの人が励ましてくれます。
でも、そこで、当然まともな人ならば「そんなんでやっていけるのかな」という思いを、ちらりとでも感じたでしょうし、逆に思わない人がいたら、そのことの方がスゴいくらい、であることは、もちろん私たちも承知していて、それは、単に口に出すか出さないかの問題でしかありません。
でも、実際に、その道で、まっとうに(という使い方はおかしいかもしれないけれど、)貫いて、メシを食べている人から、口に出して言われてしまうと、(とてもソフトな言い方ではあったけれど、)単純な私は、そのままガツンとやられて、そうだよなぁ〜〜と深く自信(もともとあったかどうかも定かでない)を喪失し、そのまましゃがみこんで、イジイジと畑の土を掘り返さずにはいられなくなります。(昨日の夕方の、実際の私の姿です。)
「やっていけるのかどうか」の「やっていく」ということが、「それだけで食べていく、生活していく」ということであるなら、それはハナから「やっていけない」と思っています。
お互いにそれぞれ副職を持ち、そちらでなんとか生計をたてながら、それとは別の次元で、カフェという「空間」と「時間」を作り出すことができれば、との思いから、まずは「週末カフェ」というスタイルになります(というか、ならざるを得ません)。
逆に言えば、それが生活の手段になってしまえば、私たちの思い描くカフェの姿には、ならないようにも思います。
そもそも、カフェという事業形態が、たくさんの矛盾を持っています。
そこでゆっくりとしてほしい、日常を忘れて寛いでほしい、地域コミュニティの生まれる場所となってほしい、という願いと、採算性を求めることは、相反した行為だからです。(ふたつをうまく両立させている店も、ない訳ではないと思いますが。)
このような開き直り自体が、夢見がちで、アマアマだと捉えられてしまうのも、仕方ないことだと思います。
事実、夢見がちで、アマアマな私たちです。
始めてみなければわからないことだらけですし、この場所柄、難しい問題点もたくさんあります。
始めてみるのはいいけれど、その先々のことまでどう考えているのか、と聞かれても、正直、まったく予想もつかず、3年続くか、10年続くかも、わかりません。
だけど、ひとは皆、たぶん、何かの形で自分たちを表現し、そのことで価値観を共有できるひと同志で、繋がっていきたい、という気持ちを持っていると思います。
それは、個人によって、仕事であったり、趣味であったり、ひとそれぞれ。
私たちの場合が、この北軽井沢という場所でカフェをやってみたい、ということがソレで、喰って行く、行けないということはひとまず置いておくとしても、表現したい、発信したい、伝えたいコトのカタチなんだと思うのです。
・・・とかっこよく書いてみたところで、不安は解消される訳でもなく。
「やっていけんのかい!?」とドヤされれば、い、いやぁ、ど、どうすかねぇ、と頭を掻くしかなく。
やったもん勝ち、やら、やらずに後悔よりはやって後悔、だとか、明日は明日のホニャラララ〜、やら。。。
都合のよい慣用句ばかりを拾い上げ、自分たち自身を奮い立たせていくしか、ありません。
そんな私たちを、芽吹きの森が、笑っています。