ここら辺りに住んでいると、「薪ストーブがあるんです」と言ってもへ〜そう、という感じだが、「お風呂は薪で沸かすんです」と言うと、さすがにおっ!と言う顔をされる。
先代のこの家の主人(私の父のことだが)がなにしろこだわったことの一つで、以来20年近く現役で稼働中だ。
週末ハウスとしてではなく、毎日の棲みかとして移り住んだ昨年の春。果たしてそのまま使い続けられるものか迷ったが、今のところ相方のこまめな薪割りとメンテナンスのおかげで、生活の中に溶け込んでいる。
とは言うものの、仕事で疲れて遅くなった晩や、雨の日風の日雪の日のフロタキは、正直言ってツライ。(これに関して私に本来発言権はない。フロタキ当番の比率は相方が9、いや9.5、のわたしが0.5くらいだから。それでもあえて言ってしまおう。)
設計上のミスか、それともすべての家でそうなのか、確かめてはいないが、お風呂のある家の北側の外部分のひくーいところに薪をくべる釜があり、覗き込んで火をつけるにも、薪を足すにも、膝をつき、お尻を突き出し、地面に這いつくばるようにしなければならない。おかげで下半身は土まみれになる。
その現場の頭上には屋根がなく(これは完全に設計ミスだと思う)、雨の日には突き出したお尻がびしょぬれ。冬場、地面が凍結してアイスバーンになると、ツルツルで足の踏んばりがきかず、手に薪を握りしめたまま、べしゃんとうつ伏せに伸びてしまったりする。(ホントの話。)
そうまでして、すぐに火が興ってくれればよいが、雨で湿っていたり寒すぎる日には、焚き付け用の小枝にも、なかなか移ってくれないこともある。
呪いの言葉を吐いたり、なだめたりすかしたり懇願したりしながら、祈るように見つめる釜の奥から、パチパチと木のはぜる音が聞こえて来た時には、心から「おお神よ」と十字を切りたい気分になる。
前述の先代の主人(つまりパパ)には、火の興し方にもイッカゴンがあり、紙や段ボールを使うことは邪道で、小枝から太い薪へとスムーズな点火を心せよ!と教えられてきたので、当初はそれで随分苦労した。(紙の煤が煙突によくないという理由はあってのことだけれど。)
近頃は燃やせるものは燃やして、太い薪を使わずに小枝だけで賄ったり、スピーディーかつラクチンな手法を取り入れつつある。
そんな苦労をして何が楽しいのか、と思われるかもしれないが、相方の言う通り、薪で焚いたお湯は、こころなしか(いや確実に)柔らかい。
浸かった時の満足感が違うし、「はぁ〜〜〜」と漏れ出るため息も、ガス風呂の2倍の長さになる(と、思う。)
それに、夜、パチパチという音を聞きながら、真っ暗な雑木林の中で満天の星を見上げげつつ薪をくべていると、その日あった嫌なことや悩みごとも、不思議と煙突から出て行く煙とともにすーっと身体から抜け出ていくような感じになる。
この、東京暮らしでは絶対に味わえなかった数分の時間が、今の暮らしの活力の源となっていることはたしかだ。