「動」の日。
所用で、浅間を回り込んで東御〜上田まで行く。
朝の時点では晴れ。
視界の開けるサンラインを走っていると、前方に雪を被ったアルプスが、横一列、壁のようにそびえている。白い尾根の部分が、くねくねと、空に浮かんでいる。
ふと、昔のひとは、あれを越えようとは思わなかった(思えなかった)だろうな、と思う。
移動の手段が、徒歩か馬か、というくらいの頃。あんなもの、越えられやしないと、ハナから諦めただろう。そして、山の向こうのよその土地を、海を、あれこれ想い描くだけで、一生を終えたんだろう、この日本のど真ん中の、海からもっとも遠い信州の村のひとたちは。
今は、このまま車を走らせていけば、3〜4時間も行けば、あの山だって越えられる。その向こうの海にだって、行く気になれば、今だって。
少し前に読んだ雑誌で、佐野洋子さんが「月になんて行くもんじゃない、そんなものは狂気の沙汰だ。月は見るためにあるのだ」と書いていた。
ほんとにその通りだと思った。
ひとは山を越え、海を越え、地球を飛び出し、どこまで行っちゃうんだろう。自分の身の回りの地域すら、目が届かないというのに。
遠い向こうのヒラヒラの皺の寄ったレースのような山を見ながら、そんなことを思って、走った。
帰り道はどしゃぶりの雨。
小諸を過ぎたあたりで、ざあざあの雨の中に、時々白い塊が落ちてきた。
雨のなかに、雪が降っている。
普通、雨はいっせいにみぞれになり、みぞれからいっせいに雪になるものだと思っていた。
出発地点の雲の高さが低ければ雨、高ければ雪なのか?
どしゃぶりの雨のなかの雪は、ちょっと見慣れない光景。
その頃、山の裏側の北軽井沢は、吹雪。
実は、カフェでひとりお茶をするのが、だいぶ久しぶりだったことに気づく。
平日の昼間のカフェには、習い事帰りのおばさまグループ(それまでの話し声から1オクターブ以上高い声で「どぉも〜、ありがとね〜」とレジを済ませる)や、若い主婦とお友だち(主婦は義母との折り合いが悪いらしく、友人はパスタを一口すするごとに「そりゃあないよね〜、つうか人としてあり得なくない?」と当人以上の剣幕で相槌を打つ)や、ひとことも会話を交わさないカップルなどがいて、興味はつきない。
キッチンの中でキャップをかぶったお兄さんは、黙々とフライパンをゆする。
雨の日のひとりカフェは、すぐにも席を立ちたいような、いつまでもぐずぐずしていたいような、落ち着かない気分。結果、少しぐずぐずする。
上田市の「トラフィックデパートメントストア」にて。
ホームセンターで買い出しをして、友人と猫の顔を見に立ち寄って、スーパーに駆け込んで、霧の峠道を帰宅。
うちに帰ったら、箱いっぱいの干物(みりん干し多数)が届いていた。
「ルームシューズが干物に化けた!」(←いしいしんじのごはん日記風に。)
ブログに書いてみるもんだ。ありがとう。
「静」の日に、つづく。