なにも言葉を交わさずとも、さらさらと気持ちよい風が通るようなこともあれば、これはもうどうしたって、宿命的に、言葉が通じなくて、やりきれなくなることも。
週末の店での出会いは、人生の縮図かも。(チトおおげさですが。)
そんななか、こないだの週末は、「わたしがカフェを作ったらぜひ来てもらいたいひと(勝手に)ベスト10」に入るある方がはるばるやってきてくれた。
来てもらいたかったのは、そのお仕事柄、何かその先にあるものを期待するとか、そんなやましいことではなくて、もっと単純に、その人が「気持ちよいものや場所」を(おそらく先天的に)嗅ぎ分けられる才能を持っている人だから。
その人が、ここで、どんなふうに過ごしてくれるかを、見てみたかったから。
だから、その訪問は、嬉しいコトでもあり、怖いコトでもあり、賭けみたいなもの。
少し前に来襲予告を受けてからは、傍目にも怪しくそわそわそわ。
でも、実際にはそんな賭けに勝敗なんてなくて。
こちらがわの「ひとり焦り」を知ってか知らぬか、その人とお友だちは、ごくごくフツーに、ある意味至極真っ当に、食事をして、お茶をして、ハンモックに揺られて本を読んで、そして(私個人の希望的観測としては)ここに流れる時間を楽しんでくれているように見えた。
湿り気を帯びた緑の匂いを、雲の間から奇跡的に顔を出してくれた陽の光を、そのあとに一瞬吹いた優しい風を、きっと一緒に感じてもらえた。
それだけで、もう十分だった。
それだけで、もう十分だった、のに、帰り際、「フォレミ」について、嬉しい言葉をたくさんもらった。
その分野のパイオニアといってもいいくらいのその人からの言葉は、もったいないくらいで、照れくさくて、応援団1年生の男子のように直立不動で「押忍っ、押忍っ」と言いそうになってしまった。
まだまだだけど、やっぱり思い切ってやってみてよかったな。
あの言葉は、胸の奥の小箱にしまって、またみみっちくくじけそうになったときに、そっと開こう。
お仕事でご一緒した7〜8年前からすでにそうだったけれど、その人のまわりには素敵な仲間がたくさんいる。
それは、彼のセンスやお仕事ぶりはもちろんのこと、もっと、ごく当たり前の「人として気持ちよく接すること」あたりが理由なような気がする。
そういうのが、偉大な功績を残すよりも、大金を稼ぐことよりも、なんだかものすごく大切なことのように、近ごろ、あらためて思ったりする。
Yさん、おみやげのワカメ(!)、ありがとうございました。
(もちろんご本も。)
どなたのことだかピンと来た方も、どうぞこっそり、ひとりでニマニマしてくださいね。